独立を達成するとすぐに李承晩は、日本統治時代に日本に協力した国内「親日派」の排斥に動き出す。「反民族行為処罰法」を制定し、「親日反民族行為者」を法的に認定したのだ。ただこの頃は日本に対して敵対的な態度は示していなかった。あくまで国内の「旧日帝協力者」を排除するにとどまっていた。
その一方で、大韓民国内の南朝鮮労働党党員などの反李承晩左派・親北勢力除去を目的として、1948年12月に国家保安法を制定する。こうした施策は、李承晩が自らの政権基盤を安定させるため政敵を排除するためのものだった。
だが、1952年に李承晩ラインを設定する頃には反日・反米の態度を隠そうとしなくなっていた。彼が語ったという「アメリカを信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本はかならず再起する。注意せよ!」という言葉が韓国で流行語になったほどだった。
結局、李承晩は大韓民国建国にあたっては民族主義者や左派・親北勢力を排除し、大韓民国建国後は日本と敵対し、さらに大韓民国建国・李承晩の大統領就任を助けた米国とも信頼関係を築けなかった。こうした言動がもとで、李承晩は日本からは「反日」や「韓国の国粋主義者」、親北主義者からは「親日」と見なされるようになった。
「問題は米軍が朝鮮半島から撤収しないことだ!」
李在明氏が、大韓民国の建国は「親日勢力と米占領軍の合作」だと捉える視点はこのような歴史観によるものだろう。米国の高高度防衛ミサイル(THAAD)を「外部勢力による侵略」ととらえる視点にも、そのような歴史認識が背景にあると考えられる。
李在明氏は17年に出版した自叙伝の中で、「朝鮮半島に入城した日本軍はずっと駐屯して国政に関与し、ついに明成皇后(注:閔妃)を殺害し、第2次日韓協約と植民地支配につながる野望と欲望のプロセスを進めていった」「もちろん現在の北朝鮮と朝鮮末期の東学軍を単純比較はできないが、問題は米国も当時の日本と同様に朝鮮半島から決して撤収しない点だ」と指摘した。