日本人にとってまったく「親日的人物」ではない李承晩
李在明氏の目に映っている李承晩元大統領は、「米軍と共謀して左派を退け、日本統治時代の基礎の上に立つ人間」、ということのようだ。
李承晩は上海で結成された「大韓民国臨時政府」の初代大統領であったが、国際連盟による朝鮮半島の委任統治を提案したことから、左派の李東輝らから強い反発を受け、上海を去らねばならなかった。
1945年8月に日本が降伏すると、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部はソ連軍、南部は米軍による連合軍政に置かれることになった。李承晩はその年の10月に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁の直轄統治下にあった朝鮮半島に戻って独立建国運動を開始する。朝鮮にはほかに有力な反共の右派が存在しなかったこと、彼が米国軍政をある程度許容していたことから、米国陸軍司令部軍政庁は李承晩を支持した。
当時朝鮮には民族派の金九(キム・グ)、左派の朴憲永(パク・ホンヨン)などの政治家も力を持っていたが、彼らは米国と対立しており、米国が朝鮮独立問題解決のために実施しようとしていた総選挙について、「南朝鮮単独での総選挙は南北分断を固定化する」と反対していた。そのような反対の中、米軍政庁は特別戒厳令を出して反対派を抑え込み、1948年5月に朝鮮半島南部で総選挙が実施する。選挙後に開かれた憲制国会で李承晩は議長となり、さらに7月には大統領に選任される。そして8月15日、ついに米国の後援を得て半島南部のみを実効支配する大韓民国が樹立される。もちろん李承晩はそのまま大統領の座に就いた。
こうして誕生した李承晩政権は、地主、資本家及び日本統治下の朝鮮人官僚を勢力基盤としていた。このことが「李承晩は親日だ」と批判される所以である。