彼女の最終目的は国政復帰であり、総理の座を狙うことである。討ち死にする都民ファーストの会などに関わっている暇はない。過労をおしてでも応援に駆けつけるメリットは何もないのである。それよりも、動かないことで自民党に恩を売り、国政復帰への道を確保したほうがよい。
利用できる者は利用し、使い途がなくなったら見向きもしないのが、彼女の政治家としての特質であり、ある意味でマキャベリズムを体現した政治家の典型である。捨てる相手は、細川護熙、小沢一郎、小泉純一郎、そして今度は二階俊博なのだろうか。
いずれにしても、秋に予想される衆議院選挙の結果、国会議員も新旧交代が起こるであろうし、いつまでも二階俊博、麻生太郎といった長老が支配しているわけではない。しかも、最近の政治家の質の劣化は甚だしい。小池百合子が国会議員に返り咲いて活躍できる余地はある。
「二元代表制」を叫ぶ都議会の病理と腐敗
国政だと、衆議院選挙で大敗すれば、内閣は吹き飛ぶ。それは議院内閣制だからである。これに対して、都政は大統領制である。アメリカのように三権分立である。私の経験からすれば、アメリカの大統領制よりも、議会は独立性が強く、都知事を利用するだけで、遙かに勝手気ままな行動をする。
知事の人気が高いと、すり寄って知事側近であるかのように振る舞い、選挙の道具にする。しかし、ひとたび知事の人気が陰り始めると、さっさと袖にする。その典型が公明党であり、裏切りも平気である。
しかも、都議会議員は「二元代表制」という言葉を声高に叫ぶ。つまり、「知事と同じように、自分たちも有権者に直接選ばれた代表なのだ、だから知事と同等の権力を持っているのだ」と豪語するのである。「同等」どころか、何回も当選した議員は、長くても3期12年程度の在任期間の知事よりも長期間公職に就いているという優越感を持っている。そこから来るのは、「知事は利用すべき対象であり、邪魔になれば捨てれば良い」といった奢りである。
知事選と都議会選は別物であり、後者で勝ちさえすれば良いというのである。予算案にしても議会の承認がいるし、条例も議会が反対すれば可決されない。そこで、知事の目の届かないところで、都議会議員たちは都庁の役人を呼びつけ、様々な要求を出したり、陳情したりする。とりわけ、議会の多数派に属する議員の力は絶大である。
そこで、長年第一党の地位にあった自民党では、内田茂議員(現在は引退)のようなフィクサー的なドンが誕生するのである。潤沢な税収のある東京都では、官僚機構を意のままに動かせれば、配分できる利権は山ほどある。それが、政治資金や票に変わっていく。役人にしても、自らの好む方向に議会が舵を切ってくれれば万々歳である。
こうして、政官業の癒着が生まれるのである。東京都は、財政規模から言えば、世界で中程度の国家と同じであり、配分すべきパイは山ほどある。したがって、都議会第一党、そしてそれと協力する公明党のような政党にとって、旨みがあるのである。地方自治体と言っても、首都であり、しかも地方交付税交付金も受け取らない裕福な大都市である。