「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」 -天狗党の乱-<歌川国輝 (3代目), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で>

(柳原 三佳・ノンフィクション作家)

 NHKの大河ドラマ『青天を衝け』。6月13日に放送された第18回目「一橋の懐」は、明治維新の4年前にあたる元治元年(1864)から翌年の出来事が描かれていました。

 NHKのサイトにある、この回の「あらすじ」から一部抜粋してみます。

<篤太夫(吉沢 亮)は、天狗党(てんぐとう)討伐のため慶喜(草彅 剛)とともに京をたつ。一方、成一郎(高良健吾)は、慶喜からの密書を耕雲斎(津田寛治)に届ける。耕雲斎は降伏を決めるが、悲しい運命が待ち受けていた>

武田耕雲斎が加賀藩との話し合いを重ね降伏した敦賀・新保宿陣屋(筆者撮影)

 実は、ドラマでは触れられませんでしたが、武田耕雲斎率いる水戸の天狗党が降伏を決めるとき、敦賀の新保宿で耕雲斎と直接やり取りを行ったのは、加賀藩の藩士たちでした。

 その渦中に、本連載の主人公である『開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)』(1829~1877)がいたことは、あまり知られていません。

 佐野鼎は、1860年に「万延元年遣米使節」、1862年に「文久遣欧使節」の随員として、すでにアメリカとヨーロッパを視察していた数少ない日本人(※両方に参加したのは6名のみ)の中の一人でした。今回は、そんな佐野鼎自身が、天狗党の征伐に出陣する前日に記した一編の漢詩を紐解きながら、その複雑な心境を読み解いてみようと思います。

初めての実戦を前に書き記した一編の漢詩

 佐野鼎と「天狗党」との接点については、以前、本連載の25回目で取り上げました。

(参考)天狗党に武士の情けをかけた佐野鼎とひとつの「謎」 
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58585