「尊王攘夷」を掲げていた水戸の「天狗党」は、故人となった藩主・徳川斉昭の子である一橋慶喜になんとかこの志を支持してもらおうと、1864年10月末に水戸を発ち、慶喜のいる京都を目指します。

 しかし、これを知った幕府は、何とか天狗党の動きを食い止めようと、加賀藩をはじめとする各藩に天狗党の鎮圧を命じたのです。

 当時、西洋砲術師範として加賀藩に召し抱えられていた佐野鼎は、当然のことながらこの任務を藩から命ぜられ、1864年12月、大雪が降る敦賀で、その対応に当たることになったのです。

 佐野鼎が出陣する際、親友の加賀藩士・宇野直作宛てに書き残したのが『臨発作(発するに臨む作)』と題した漢詩です。自分に万一のことがあったときの「遺書」的な意味合いもあったのかもしれません。

 ちなみに宇野直作は、佐野鼎の異母妹の夫、つまり義弟にあたり、後に開成学園の前身となる「共立学校」を共に立ち上げた人物でもあります。

開成学園に保管されている佐野鼎直筆の漢詩。1864年12月16日、天狗党鎮圧のための出陣前日に書かれた(『佐野鼎と共立学校 -開成の黎明―』より引用)

『臨発作』(発するに臨む作)

扼腕切歯 意奮然 (腕を握り締め 歯を食いしばり)
雙刀響繋腰間 (腰に差した二つの刀が響き合う)
好将一死比毛羽 (好し一死をもって毛羽に比せん)
蹴破晏安姑息眠 (一時の間に合わせの、穏やかな安らぎを蹴破ろう)

漢詩『臨発作』に込められた佐野鼎の思いとは

 では、この漢詩にはどのような意味が込められているのでしょうか。

 漢詩に造詣が深く、万延元年遣米使節の一員であった加藤素毛の日記など数多くの古文書の翻訳を手掛けた著者でもある片田早苗氏は、こう分析します。

「この漢詩には自分の死をも覚悟するような記述が見られます。おそらく、佐野鼎は人生初の実戦となる天狗党征伐への出陣に大変な覚悟をもって臨んだことでしょう。一方、すでに欧米の進んだ文明や圧倒的な軍事力を熟知していた佐野鼎は、この漢詩の中で、世情にも心を傾ける余裕を見せているように思います」