「天狗党よ許せ」

 しかし、年が明けて1月29日、幕府軍からの命により浪士全員の身柄の引渡しを加賀藩から受けたのは、彦根藩でした。

 彦根藩はかつて、主君である井伊直弼を桜田門外で暗殺されています。そのときに関わったのが水戸藩です。もちろん、加賀藩は「士道を以て遇するべき」と、幕府に懇願していましたが、その後の処遇は火を見るよりも明らかでした。

 結果的に、352人が敦賀で斬首され、残った胴体は5カ所に掘られた穴に次々と投げ捨てられ、かろうじて死罪を免れた者も137人が島流しに、その他は水戸藩渡しとなったそうです。

 新保宿で武田耕雲斎と直接交渉を行った加賀藩の永原甚七郎は、その悲報を聞き、「天狗党よ許せ・・・、天狗党よ許せ・・・」と声を上げて泣いたという話も伝わっています。

水戸烈士慰霊碑(筆者撮影)

 永原は佐野鼎の上司にあたる人物です。おそらく、彼の胸の中にも、このときの辛い体験が強く刻まれたことでしょう。

 あの冬の日から157年・・・、佐野鼎が天狗党征伐の前にしたためた直筆の漢詩『臨発作』は、今も開成学園に大切に保管されています。