(柳原 三佳・ノンフィクション作家)
12月14日は、「赤穂浪士の討ち入り事件」が起こった日です。
今から316年前の元禄15年(1703年)、大石蔵之助率いる四十七士が、主君・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の仇を討つため、吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷に討ち入って殺害。その後、四十七士は切腹を命ぜられたのです。
この「仇討ち物語」は、後の世に脈々と語り継がれ、つい最近も『決算! 忠臣蔵』といったユニークな切り口の映画公開が話題になっていましたね。
長きにわたって、舞台や映画、ドラマなど、さまざまなかたちで脚色されながら、日本人の心を揺さぶってきた歴史的な出来事だと言えるでしょう。
天狗党と「開成をつくった男、佐野鼎」の意外な接点
さて、忠臣蔵の話題が頻繁にのぼる年の瀬ではありますが、私は毎年この時期になると、赤穂浪士とは逆に、忠義を尽くした主君に裏切られた水戸の「天狗党」の哀しすぎる末路に思いを馳せています。
実は、「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、天狗党とある接点があったことがわかっています。
彼らが処刑、あるいは島流しとなる直前に、加賀藩で西洋砲術師範だった佐野鼎は、京を目指して行軍する天狗党の鎮圧を命ぜられ、わずか数日間ではありますが、最前線でその対応に当たっていたのです。
出陣前に佐野鼎が綴った直筆の漢詩は、今も開成学園に保管されています。
このときすでに、遣米使節、遣欧使節の従者として、二度の世界一周を経験し、欧米列強の圧倒的な軍事力や文化度の高さを目の当たりにしていた佐野鼎は、「攘夷」や「鎖港」を叫びながら無謀ともいえる行軍を続けた天狗党に対して、いったいどのような思いを抱いていたことでしょう。