米アトランタにあるLGBTの生徒らが通うプライドスクールで手話を学ぶ学生(2016年12月19日撮影。写真:ロイター/アフロ)

(柳原 三佳・ノンフィクション作家)

 1月8日、横浜地裁で注目の裁判が開かれました。

 2016年7月、相模原市の知的障害者福祉施設で19人の入所者が死亡、26人が重軽傷を負った戦後最悪の殺傷事件。殺人と殺人未遂の罪に問われている植松聖被告(29)は、起訴事実を認めたものの法廷で暴れ出したため、被告人不在のまま裁判が行われたそうです。

 現代に生きる彼がなぜ、障害者への差別感情をあれほどまでに強く抱くことになったのか、またこの裁判で責任能力は認められるのか・・・、今後明らかになる事実が大変気になるところです。

日本人初、聾唖教育をレポートした佐野鼎

 さて、『開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)』は、その名の通り、明治4年に開成学園(当時の名は共立学校)を創立した教育者として知られています。

 実は、佐野鼎は幕末期にいち早く「障害者教育」という分野にも関心を寄せ、日本人として初めてアメリカの「聾唖教育」を視察し、自身の『訪米日記』の中でレポートした人物でもあります。

 1860年(万延元年)、幕府が派遣した遣米使節団の一員としてアメリカに渡った佐野鼎は、ニューヨークでメトロポリタン・ホテルに宿泊しました。このとき、鼎に大変親近感を抱いたホテルのオーナーが、使節団の滞在中、時間を見つけては市内の案内をしてくれたという記録が残っています。

 鼎はこのオーナーについて、自身の『訪米日記』に次のように記しています。

『旅館の主人、名はレイランドといふ。甚だ寛厚の人物にして豪富なり』