当時、佐野鼎は西洋砲術の専門家として活躍していました。レイランドもたびたび戦争に出向いて武器にも詳しかったことから、話の接点が豊富だったのかもしれません。

ニューヨーク市役所(筆者撮影)

ニューヨークの聾唖学校を見学

 ニューヨークに到着して数日後、レイランドは、鼎といつも行動を共にしている仲間四人を、郊外へと誘ってくれました。

 ニューヨークを訪れる前、鼎たちがフィラデルフィアのペンシルベニア大学を見学して大変感銘を受けたという話を聞いていたレイランドは、アメリカの教育事情をもっと彼らに見せたいと思ったのでしょう。

 ホテルから馬車で河口へ向かった一行は、そこから小さな蒸気船に乗って40キロほど北上しました。ヨークベルという街に聾唖の児童を教育する学校があるというのです。

 耳の聞こえない子どもたちを相手に、いったいどのような授業を行うのか・・・。

 おそらく、幕末の日本から来た彼らは、想像すらできなかったことでしょう。

初めて目にした「手話」

 案内されたそこには大きな校舎があり、聾唖の児童約三百人が、数十人の教師によって綴り方の授業を受けていました。

 日本からやって来た、ちょん髷に羽織袴のサムライたち、生まれて初めて見るその姿に、生徒たちはさぞかし驚いたに違いありません。

 でも、日本人たちの驚きもそれ以上でした。

 手話というものを初めて見た鼎は、『訪米日記』にこう綴っています。

『男女の唖児三百人入学せり、数十人の教頭ありて之を教ふ。其の法、初には彼の邦字二十六字を書せしめ、その後文字の音を教ふるに、右手を以て或いは伸ばし又は屈し、概ね文字の形を模して示す』

 アメリカではこの頃すでに、アルファベットの形を模した手話を聾唖教育に用いていました。