美味い。味はまさにクルミそのものだったが、薄皮のえぐみがない分、市販のクルミより美味しく感じられたほどだ。私は生まれて初めて食べた野生のクルミの味に感動した。数千年前に生きた縄文人たちも、こうやって森でオニグルミを採って食べていたのだろう。

 そのまま食べられる美味しい実が木になっている。このシンプルな事実が、私にはこの上なく特別なことのように感じられた。飽食の現代を生きる私ですらそう感じるのだから、森の恵みで生命をつないでいた縄文人たちにとって、「食べられる木の実」は樹木からの格別の贈り物のように感じられたに違いない。

精霊と目が合った

 すべての葉が枯れ落ちて、冬には一度死んだかのように見えるクルミの木が、翌春にはふたたび芽吹き始め、秋には数えきれないほどの果実を実らせる――この死と再生の物語が“奇跡”以外の何であろうか。自分たち人間は何も与えていないのに、毎シーズン、クルミの木は生命の果実を贈与してくれる。この事象の背後に、何らかの“善意ある存在”の介在を感じないことの方が難しいだろう。

 そして人類ははるか古代から、この“善意ある存在”を“精霊”として表象し、かれらから一方的に贈り物を受け取ることを良しとしなかった。つまり秋に祭祀の場を設け、そこで精霊たちへ供物を捧げ、ときには精霊と気前の良さを競うように盛大な返礼式(収穫儀礼)を行ってきたのである。これは植物と人類における贈与論といってもよいだろう。

 長い都会暮らしで私の生命感覚は鈍磨していたようである。一粒の野生のクルミは、「食べる」という行為が単なる栄養摂取のそれではないことを教えてくれた。それは生命という共通項を媒介にして、自分の肉体と植物とがひとつながりになる行為なのであった。

 初秋の河原でしばし感慨にふけっていた私は、殻の窪みに残っていたクルミの破片をナイフで搔き出した。そして、事件は次の瞬間に起きた――目が合ったのである。精霊と。それは私がずっと探していたあの“かたち”に他ならなかった。

酷似する二つのフォルム

 オニグルミが縄文人の重要な食料源であったことは知っていた。しかし、“クルミ”という先入観から、私はスーパーで売っている普通の西洋クルミしかイメージしていなかったのである。

 二つに割られたオニグルミの殻は、私の手のなかで見事なハート形を示していた。