2009年の衆院選で、自民党は野党に転落した。二階は自らのグループ「新しい波」を率いていたが、衆院で生き残ったのは二階だけ。参院議員もわずかに2人。二階グループは党内最弱の計3人になってしまった。

 2009年秋、二階は当選同期の伊吹文明が会長を務める伊吹派(志帥会)に合流する。重要なポイントなので伊吹の発言を引用する。

≪二階さんの保守党はなかなか安定せず、結局自民党に戻ってこられました。ところが、あの頃は郵政民営化の渦中で亀井静香氏などが離党していくなどの大騒動があり、そのときに同期の二階さんに声をかけて、<志帥会>にお誘いしたのです。そして私が衆議院議長になったもんだから、二階さんに<志帥会>をお預けしたのです。それが今の<二階派>です。二階さんは志帥会を引き継いで大きくしてくれましたね。(中略)二階さんは頼まれたこと、引き受けたことはちゃんとやる方で、筋を大切にする友人です≫(林渓清著、大中吉一監修『ナンバー2の美学——二階俊博の本心』ブックマン社)

 二階には他の派閥からも声がかかっていたとみられる。当選同期の元財務相の額賀福志郎、元外相の町村信孝の2人は当時、それぞれ平成研究会、清和政策研究会のトップだった。元幹事長の武部勤(山崎派幹部)とも親交が深く、別の「引き」があれば二階は伊吹派以外に身を寄せていた可能性があった。

 だが、二階は伊吹派を選んだ。伊吹は2012年12月の第2次安倍政権発足に伴い、衆院議長に就任。二階は派閥を丸ごと「預かる」という幸運に恵まれた。幹事長への道が開けた決定的瞬間だった。

少数与党で力を蓄える

 少し時代を遡る。

 二階は1992年の竹下派(経世会)分裂以来、小沢一郎と政治活動を共にしたことで知られる。小沢の信頼を勝ち得た二階は1998年1月、重要ポストを射止める。小沢自由党で国対委員長に就任したのだ。根回しが肝となる国会対策はもともと二階の得意分野である。

 当選5回の中堅議員の手腕が発揮されたのは1998年11月に行われた首相・小渕恵三と小沢の自自党首会談だった。二階は小渕と小沢の橋渡し役となり、暗躍した。自自連立政権といえば、官房長官の野中広務が「小沢さんにひれ伏してでも」の発言で知られるが、野中・小沢会談の仕掛け人も二階だった。これらの舞台裏は二階本人の証言や関係者への取材に基づいた大下英治の『永田町知謀戦 1~4』(さくら舎)に詳しい。

 1999年1月、自自連立政権が正式に発足し、二階は与党の国対委員長として活躍の場を広げていく。カウンターパートの自民党国対委員長は実力者の古賀誠だった。二階は古賀と侃々諤々の議論を繰り返しながら、信頼関係を築いていく。

 1999年10月、小渕改造内閣が発足した。公明党が連立に入ったいわゆる自自公連立政権である。二階は運輸相兼北海道開発庁長官として初入閣を果たした。60歳で待望の大臣にたどりついた格好だ。小沢が閣内に押し込んだのは言うまでもない。閣僚になった二階は、山陽新幹線北九州トンネルの事故対応、有珠山噴火対応などでめざましい働きをみせる。