小沢の力で閣僚になれた二階だが、まもなく自由党の連立離脱をめぐる与党内政局に直面する。2000年4月、二階は小沢と決別して閣内に残留した。

 1992年秋に小沢と行動を共にしてから7年半。二階はその後、保守党幹事長、保守新党幹事長となり、一貫して連立政権にとどまる。カウンターパートだった幹事長の山崎拓とのパイプを構築したのもこの時期である。

 古賀、山崎など自民党の有力者との「友情」は、自民党復帰後の武器となる。少所帯ながら与党幹部として政局に関わった経験は、一中堅議員から脱皮するきっかけにもなった。自由党で半年弱、保守党・保守新党時代の約3年半は、二階が力を蓄えた時期に当たる。

抜群の反射神経

 2003年11月の衆院選で二階が実質的に仕切っていた保守新党が敗北する。衆院は現有9議席が4議席に減った。保守新党は解散し、同月中に二階らは古巣の自民党に合流した。二階は新グループ「新しい波」を発足させ、会長となる。

 2004年9月、“出戻り組”の二階に千載一遇のチャンスが巡ってきた。自民党の選挙対策責任者、総務局長ポストを手に入れたのだ。幹事長の武部が推薦し、首相の小泉純一郎が賛同した人事だった。前出の『永田町知謀戦』によると、二階は当初固辞するものの、古賀らの後押しもあって総務局長を受諾する。

 永田町では郵政民営化法案をめぐる激しい攻防が展開されていた。二階は2005年5月、衆院郵政民営化に関する特別委員会委員長を引き受ける。要職の総務局長に加えての重責である。総務局長と同様、小泉・武部コンビが主導した人事だった。