「サイエンス全体」と全力で取り組む

 素粒子、物性、高エネルギー、極低温・・・。

 そんなジャンル分けは昭和20年代、いまだ焼け跡闇市の日本のサイエンスには、一切なかった。

 戦後、すべての実験物理の原点は、一つの芽から始まった。それが「霜田光一とその時代」のサイエンスの黎明であった・・・。

 もちろん同時代、ほかにもラボはたくさんあったと思います。

 西川さんのお父上、西川正治東京帝国大学理学部物理学科教授が、師匠の寺田寅彦教授の示唆を受けて完遂した先駆的なX線解析などもあった。

 そして、そういう環境で学生として学ぶことができて、霜田先生その人も育まれた。

 霜田少年が学んだ今でいう中高一貫、7年生高校であった旧制武蔵高等学校は、長岡半太郎たちを育てた山川健次郎が東大や京大の総長をすべて引退し、人生の最終段階で「ティーンエイジャーを育てなければならない」と、自ら校長となって指導したサイエンス・スクールでした。

 白虎隊の生き残りですから、ティーンの刻印の重要性が山川には強く感じられたのかもしれません。

 霜田先生ご自身は山川校長に直接習っていないと思いますが、「すぐれたものを、おしみなく」という大原則。世界最先端の実験環境を整えたうえ、そこで「放し飼いにする」。

 つまり、あれこれ手を入れずほったらかして育てるという「1920年教育改革」の申し子として高橋秀俊、戸田盛和、植村泰忠、上村洸、また有馬朗人といった物理屋群像が育っていった。

 ほったらかしですから、野生動物のようにどんどん自分流を増幅させてゆき、17、18歳頃には「火の出る勢い」の原型ができていたのだと察せられます。

 霜田先生と同世代で、惜しくも2020年10月、101歳で逝去された電気工学の斎藤成文先生(1919-2020)が、1945年、海軍技術大尉として、1歳下の霜田青年(当時24歳)らのチームが作ったレーダ装置を陸軍1式陸上攻撃機に乗せて三沢基地から飛び立った、我が国初のレーダー実験の模様をつづっておられるのをリンク(http://todaidenki.jp/?m&paged=24
しておきます。

「八甲田山や三陸海岸が、はっきりブラウン管に写ったのを鮮明に記憶している」

 25歳の霜田先生は、ここでも全力を尽くされたことがひしひしと伝わってくるように思いました。

 同じ問題に米国ではファインマンやシュヴィンガー、ラムやピアース、タウンズなども取り組んでいた。それが戦後、平和な理学が孵ってきたとき、大きな実を結んだ。

 そうした中心で、ひときわ強く輝く「現代物理実験の父」が、霜田光一その人と言うべきだと思います。

 ここにはせまっ苦しい「学閥」のようなものはありません。レーザーでノーベル賞を受けたタウンズ研との交歓でも明らかなように、ここには世界に開かれた「学統」がある。それを大切に考えたいわけです。

 でも戦前までの大半の理工学は、19世紀にお雇い外国人などを通じて輸入された古典的な仕事だったと思います。

 いま、70年を経て振り返るとき、その後の歴史への貢献を考えて、霜田研ほど、多様な分野にパイオニアを送り出した研究室は稀有だといってよいと思います。

 素粒子原子核実験、加速器科学、マイクロ波物性から宇宙線、レーダー、レーザー、量子光学、広範な量子エレクトロニクス分野の数々、さらにはHの観測による天体物理研究、ブラックホール近辺の赤外線観測まで・・・。

「霜田光一とその世代」の世界の科学者が、先生の「火花の散るような」エネルギーに触発されて奮起したことは間違いありません。

 霜田研が「一大原点」であったことは、あらゆる意味で間違いがない。

 その原点で、心の赴くままに「現代物理実験」の原点を「火花の散る勢い」創り出していたのが霜田光一その人であり、続稿に記す予定ですが、レーザーの父タウンズも、半年にわたって霜田研究室に長期滞在、創造的な議論とコラボレーションに取り組みました。

 ジャンルの確立された縦穴を掘るのではなく、心惹かれる対象に素朴に向き合って、ゼロから物を作っていく、人生最高の愉悦としてのサイエンス。

 まさに「科学の全体」に対して、全身全霊、全力で立ち向かっていく、極めて人間的でもあり、また生涯を賭してがっぷり四つに組んで力を出し切る「青空」があるように思うのです。