仁科芳雄博士の素顔

 第2次世界大戦期までの日本の実験物理は、世界トップの水準といまだ距離があったように思われます。

 確かに、N.ボーアに学び、相対論的量子力学を基礎づけたディラック方程式から出発して「トムソン散乱」と「コンプトン散乱」を統一する「クライン=仁科の式」を打ち立てた仁科芳雄博士(890-1951)、電子線回折の画期的な業績を上げ、大阪大学の実験物理を立ち上げた菊池正士博士(1902-74)、後にも触れますが寺田寅彦~西川正治のX線回折の仕事など、世界レベルの仕事は出始めていた。

 でも、仁科チームが建設に取り組んだ粒子加速器「サイクロトロン」は、装置の真空度が低いなど、周辺的な技術水準が十分追いつかず、難儀したことが伝えられます。

 この時代の実験は、大半が「真空管実験」です。

 私の祖父は1908年にミシガン大学を卒業しましたが、「電子工学」はすべて真空管、当時の日本では真空技術が不十分で、適切な実験は困難で、仁科さんのサイクロトロンもそのあたりで幾度も頓挫している。

 片や、戦時研究のくびきをはなれ、霜田先生が若くして助教授に着任したとき、日本には「素粒子実験」も「プラズマ実験」も「物性実験」も、何の分野もなかった。

 そこでゼロからスタートされたとき、まずきちんと現象を再現する物理的条件(装置の真空から業者に発注する真空管の品位、値段の交渉などまで含め)に始まって、すべてをチェックし直す必要があったのは、間違いないはずです。

 さて、三十数年後に学生であった私たちには

 素粒子は筑波の高エネ研、対抗勢力でカミオカンデ、原子核実験なら原子核研究所、プラズマは一時の勢いがすでになく、物性は自由が効いて百花繚乱・・・といったジャンルが成立し切っていました。

 ちなみに私の東京大学理学部物理学科での卒業研究は、米国帰りの山本祐靖先生のもとで、当時準備が進みつつあった「スーパーカミオカンデ」対応の、新しいカウンターの「真空管」である「フォトマル」おばけ電球と呼ばれていました。

 この「較正」で、素粒子実験と言いながら、やってることは完全に古典電磁気学の応用問題です。

 その電流値を較正するため、波長の分かった光を入れてチェックするのに、1980年代後半に出始めたばかりの「レーザーダイオード」を用いてチェックする「キャリブレータ」を作るという仕事でした。

 理学というよりはそこで使う道具の一つを精密にチェックするためのエレクトロニクスのごくごく一部にすぎません。

 しかも素粒子実験と言いながら、新しく出た値段の安い「レーザーダイオード」を用いて、まずその特性を測り、次にそれをフォトマルに入れたらどうなるかを調べるという「光物性実験」、つまり霜田研のテーマのはるか下流のデバイス開発のような仕事で、私自身も理学部物理学科を卒業しました。

 それを徹底することで、およそそういうものに弱かった私でも、実験科学とは何であるか、少しは学ぶことができました。

 結局、私は巨大科学の素粒子原子核ではなく、個人の自由が効く物性に進みました。

 ところが、修士2年のとき、プラズマの宮本先生が定年されて山本研の岸田隆助手が受け持ちとなった必修実験「真空技術」でTA(ティーチング・アシスタント)を担当し、必ず押さえる内容以外は「好きにしていいよ」と言ってもらったので、大塚洋一先生と一緒に考え、単に真空にするだけの実験であったものに「ガイスラ―管」という真空管を取り付け、中の物質の状態を目で見えるようにするなど、カリキュラムを全面的に書き改めて好きなようにさせてもらいました。

 20年ほどして偶然、この実験を担当しておられる私の大好きな蓑輪眞先生にご指導いただいて「福島対策」で被災地の中学生に放射線可視化実験を宅配したとき、当時の必修真空実験がまだそのまま踏襲されていると知り、心の底から嬉しかったのを思い出しました。

 先端研究というと、何か派手なものと世の中は思うようですが、実は基礎工学的な積み上げが9割方です。

 高度な量子力学的効果を測定するには、使い古された古くからのエレクトロニクスを巧みに駆使する、「古典の最良の使い手」であることが決定的、これは理論と実験の別を問いません。

 平川さんはそういう「見事な物理」を展開する人として知られ、少し上の世代である高橋秀俊先生以下「ロゲルギスト」のメンバーたちが展開、普及した考え方の、最先端部分を掘削し続けたのが霜田先生、霜田研究室と、同時期に勃興した研究群であったのだと、改めて認識することができました。