生き残った善逸翁
第二次世界大戦が終わると、善逸翁は50に近づく年頃になっていたと思われる。少年期にかなり目立っていた金髪も、そろそろ銀髪になりかわっていたかもしれない。あるいは「鬼畜米英」を謳う当時の日本の風潮を受けて摩擦を避けるべく、黒く染めていたかもしれない。
東京大空襲、原爆投下という恐怖が過ぎ、新しい社会の到来に接したことだろう。善逸翁は、あの無惨も原子爆弾なら一発で倒せただろうなと思ったかもしれない。戦後の日本人が鬼以上の空想生物が暴威を振るう映画『ゴジラ』を見て、こんな化け物を娯楽として享受するほど、今は平和になったのだなと感慨深く思ったかもしれない。年月は進んでいく。
身の回りの人たちも老いた。もと隊士の中には、戦争で行方不明と化した者もいただろう。善逸翁が鬼と戦った事実は、やがて亡失されていく運命にあった。しかし鬼は平安時代の日本で生み出された。人間は原子爆弾すら作り出した。医学の発展も凄まじい。いつかどこかで誰かが人工的に「鬼」を開発して、無惨の同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない。
自身の老化、時代の変わりよう、伴侶と子孫の将来など、善逸翁が過去を語り残したくなる環境が満ちていた。そこで彼は自らの息子にすべてを告白することにしたのだろう。ただし善逸は、真実が世間に公開されないで済むことを願っていただろうから、きっと架空の物語であるかのように語ったことだろう。
時期的にその息子は大学生ぐらいだったろう。この時代の大学生は、物事を横書きで筆記する習慣が身に付いている。彼は父が熱心に言い聞かせてくる物語を、はじめは半ば孝行顔、半ば呆れ顔で書き留めただろう。それは、善逸翁の伝記ではなく、無惨退治の物語として完結する予定であった。
父の熱心な語りには強く魅せられたであろう。あまりにも真に迫る内容であったので、これを無惨退治の物語として終わせるのは惜しいと考えたのではないか。
大学ノートに書かれた『善逸伝』
かくして息子は善逸翁の口伝物語を筆記する。ちらしの裏に書くわけにはいかず、さりとて公的な出版をする予定もないので、原稿用紙も使わない。そこで大学ノートが使われた可能性が高いだろう。
ところで善逸翁には、表現の才能がある。
京極屋で三味線を弾いたとき、「うまいわね」「すごい迫力」「あの子はのし上がるね」等と高い評価を集めた。他人の技術を猿真似するのではなく、自らの内面に消化して表出できる稀有な感性の持ち主だった。
息子は父の物語が世間通用の幻想小説より奇々怪々で、壮絶であることに驚く。古いノートがすべて埋まると、新しいノートを取り出す。こうして何冊もの大学ノートが物語を紡いでいった。「最後の鬼」が退治されたあと、息子は詳細を尋ねたであろう。聞きたいこと、知りたいことが無数に生じていたはずだ。『善逸伝』の後半は、これら質疑応答と脚注で占められた。こうしてこのテキストは、鬼退治の物語というより、善逸個人に関心を向ける伝記としての性格が強くなった。
善逸翁の物語が終わると、息子はこれをひとつにまとめて保管することにした。内容が古典の伝奇小説を想起させるので、和綴の装幀が望ましいと考えたのだろう。燈子は同書を「ひいおじいちゃんの嘘小説」と呼んでいるが、「
同書を読み終えた善照少年は、これがきっかけで日本史に興味を持ち、大河ドラマ『麒麟がくる』を見て、「あっ、自分と同じ名前の公方(足利義輝)様が出てる! 斬った! 殺された!」等と興奮しているかもしれない。拙著『平将門と天慶の乱』を読んで、「最初の鬼が生まれた時代は地獄だぜ」と笑ってくれているかもしれない。名作から広がる想像は、どこまでも尽きることがない。
【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。
【歴史の部屋】
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