犬養が遺した2編の「詩」と「志」

 大日本帝国憲法下の戦前にあって、政党政治が輝いた時代がある。大正末期から約8年、明治の自由民権運動以降、人々が長く渇望してきた立憲政治が、この国で確かに行われた。それが乱暴に幕を下ろされたのは、1932(昭和7)年。総理大臣犬養毅(木堂)が暗殺された5.15事件である。

 古島は、その犬養毅の懐刀と呼ばれた。帷幕(いばく)に参じ、謀略を生き抜き、犬養の死とともに政党政治が息絶えてゆく様を無念のうちに見届けた。その苦い記憶は、思想統制の戦時下、古島ただ一人の胸の暗渠(あんきょ)に長く封印されてきた。

 床の間には、経堂の家から大切に運んできた木堂の書が架けられている。そこには、2編の漢詩が並んでいた。

  登城山憶南洲翁
  麟閣幾名賢
  獨見一頭地
  先蹤誰能攀
  鬱嵂城山翠

  火車過可愛嶽下
  可愛山前路
  硝烟憶昔年
  偉人黄土久
  有誰傳衣鉢

「犬養先生は、南洲(なんしゅう)翁つまり西郷隆盛(さいごうたかもり)のような死に方こそ理想だと、常々おっしゃっていたそうですね」

 床の間を指さして、アンカに陣取る松野鶴平が水を向けた。松野は、かつて犬養内閣の選挙参謀を務め、「選挙の神様」と呼ばれた政客だ。すると安藤正純が閃(ひらめ)いたような顔で続けた。安藤も犬養内閣で文部政務次官を務めた。

「そうだ、犬養先生も最初は西南戦争の従軍記者として名を上げたんだ。鹿児島で西郷にも会っていないとも限らんぞ」

 いつの間にか輪に入ってきた大佛が、皆に請われて漢詩の解説を始めた。