アンカに身を埋めるようにして座る古島の周りには、到着が遅れる総理大臣吉田茂の代理として増田甲子七(ますだかねしち)自由党幹事長、さらに松野鶴平(まつのつるへい、後に参議院議長)や安藤正純(あんどうまさずみ、後に国務大臣)、衆議院議長の林譲治(はやしじょうじ)、新聞時代の後輩である長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)や馬場恒吾(ばばつねご)らの姿がある。

「あんたたち、木偶(でく)の坊みたいに突っ立ってないで、そこの椅子でも運びなさいよ」

 式の準備に走り回る大佛次郎(おさらぎじろう)たちに、てきぱきと指示を飛ばすのは神田松本亭の元女将、松本フミ。今年69歳、古島一雄を半世紀にわたって支え続けた女傑である。この場に集う男たちの中で、フミに頭の上がる者は1人もいない。

「そろそろ、開会だ」

 正午が迫り、誰かが叫んだ。

5月が訪れるたびに思い出す

 主賓用のマイクは、春の匂いたつ庭園を見下ろす縁側に用意されている。そこに集った客はもう300人は超えているだろう。侍従のように寄り添う緒方竹虎ら数人に支えられ、古島がそろそろとアンカから這い出した。

 羽織に袴、背中には揚羽蝶の紋所。蓬頭垢面(ほうとうこうめん)の古島の、生涯まれにみる晴れ姿である。古島は、マイクのスタンドに両の手でしがみ付くようにして足を踏ん張った。

「長い生涯の中で、今日は本当にうれしい。心から皆さんにお礼を言わせてもらう」

 少し上ずった甲高い声は語尾が微かに震え、その目にはどこか光るものがある。遠く風に運ばれてくる桜の花びらが、袴のヒダにまとわりついて離れない。

「この桜の季節は、僕は心が痛んでどうしようもない。この桜が散れば、あの5月がやってくる。犬養木堂(いぬかいぼくどう)の最後の時を思い浮かべずにはいられない。けれども、今日だけは心安らかに過ごすことができそうだ。皆さん、本当にありがとう」

 この時、旧知の者たちは少しばかり驚いた。それまで古島が、「犬養木堂」について公にふれたことは一度もなかった。むろん皆が、その心情を察して尋ねようともしなかった。その古島がはからずも「犬養木堂の最後の時」と発した。

 この日、古島は饒舌(じょうぜつ)だった。挨拶の続きはアンカの中に入って始まった。その周りを、既知の者たちが全身を耳にしてぐるりと囲む。