せっかく、人間に残された有利な点を、学校教育から文学を追い出すことで失ってしまうことにならないだろうか。

 無論、文学を子どもたちに学ばせればそれでよい、という単純な話ではない。新井氏が指摘しているように、現代の子どもたちの多くが、読解力のない人工知能と同じくらい、読解力がないというのだから。

「体験」不足の現代の日本

 これは筆者の仮説でしかないが、現代の子どもたちは、「場面」や「状況」まるごと体験することができない人工知能と同様、体験が欠乏しているのではないか。体験が欠乏すると、言葉の意味内容、文脈を理解したくてもできないのではないか。

 冒頭で紹介した小学生は、「論理的には」何も間違ったことはやっていない。ただ、10gという言葉を聞いたときに、手のひらにズッシリと感じる重みを感じる体験を想起することはなかったのだろう。昔々の子どもなら、天秤棒の重さのバランスが悪かったらひっくり返るという体験をしたろうが、現代はそうした体験がないのだから想起しようがない。その小学生は、「紙の上で処理をする」という、彼なりの文脈の中で解釈するしかなかったのだろう。

 筆者が塾を主宰していた頃、塾生たちをドライブに連れて行くと「向こうまで広がっている緑色のカーペットみたいなの、なに?」と質問された。青々と茂った田んぼを見て。その中学2年生の女の子は、大阪市内でずっと暮らして、田んぼをろくに見たことがなかったのだ。たぶん、彼女には、丈の長い芝生のように見えたのだろう。彼女なりの「体験」から推し量るしかなかったのだ。

 人間はおそらく、「場面」や「状況」といった、体験をまるごと含めた形で言葉を理解する。「鉄」と聞けば、ある人は冷たい感触を思い出し、ある人は重い鉄アレイを思い出し、ある人は赤く溶けた鉄を思い出すかもしれない。豊かで多様な体験があればあるほど、引き出しが増え、言葉がどういう文脈で使われているかを正確に把握することができる。

 自分自身に体験が豊富にあり、その上で文学作品を読めば、「人生・体験を拡張」し、人間心理を深く理解し、人工知能時代に最も求められる能力のひとつとされるコミュニケーション能力の土台ともなるだろう。