そんなゆとり世代が大学を卒業して社会人になろうとしたとき、最も求められた能力が「コミュニケーション能力」だったのだから、皮肉だというしかない。コミュニケーション能力は、遊びの中で培われるものだからだ。

 私の世代では、学年が大きく異なる子ども同士が群れ遊びすることも珍しくなかった。小学生が公園にいる子どもたちに声をかけ、まだ幼くて足が遅い子の場合は、「5秒数えてから1塁に投げることにしよう」と、ルールをうまく設計し、どの年代の子もスリリングにキックベースボールを楽しむことができた。全員が全力を出し切りながら、それでいて対等に遊べて、仲間はずれを作らない遊び方を工夫した。コミュニケーション能力は、そうした遊びの中で培われたのだろう。

 ゆとり世代が社会人になるに当たって「コミュニケーション能力」を求められたのは、学力より何より、最も欠乏している能力がそれだったからかもしれない。

言葉の背景にある「場面」や「状況」

 では、「文学」を知らない世代がこれから生まれたとしたら、どうなるのだろう? おそらく、教育行政を考えている人たちは、これからは人工知能など、コンピューターを使った仕事が増える時代だから、プログラム作成といった、論理能力を鍛えるのがよいのではないか、と考えたのかもしれない。

 だが、「東ロボくん」の開発を主導した新井紀子氏は、プログラミングを教えるだけでは意味がない、と懸念している。東ロボくんとは「ロボットは東大に入れるか」をテーマに始まった開発プロジェクトで、かなり難関の大学に合格できるレベルに達したものの、ある能力が伸ばせなかったために、開発をいったん中断したという。それが読解力だった。

 私には2人の子どもがいるが、2人とも言葉を話せるようになってまもなく、家族が戸を開けて家に入ってくるとき、「ただいま」か「おかえり」のどちらかをいきなり言えるようになったことに驚かされた。「ただいま」と「おかえり」の区別は難しかったようだが、使うべき「場面」や「状況」は間違わなかった。たとえば、家族以外の人が戸を開けて家に入ってきても、「ただいま」や「おかえり」とは言わず、「こんにちは」と言った。「ただいま」や「おかえり」は、家族にしか使わない言葉なのだ、という「文脈」を理解していることを示している。