論理は、豊穣な体験から抽出・精製して生まれるものだ。数字の「1」を子どもが理解するには、1つのリンゴ、1つのミカン、1つのコップ、1つの家、1人の人間といった、豊かな「場面」「状況」をまるごと受けとめ、それら「場面」「状況」をすべて貫く「1」という存在に気がついた時、初めて了解できるもののように思う。論理や抽象概念を理解するには、豊穣な体験が不可欠だ。

 レイチェル・カーソンは、「沈黙の春」ですっかり有名な人物だが、私は、この人の真髄は『センス・オブ・ワンダー』という、絵本並みに薄い本にこそ現れていると考えている。

 カーソンはこの作品の中で、甥のロジャーと共に夜の海や雨の森に探検に出かける。生物学者であるカーソンは、その気になればロジャーにいくらでも生き物の名前を教えることができる。しかしカーソンはそれをせず、滴でキラキラ光るコケを「リスさんのクリスマスツリー」と呼んだりして、自然の中に飛び込み、まるごと体験することを重視した。世界の不思議さ、神秘さに目を瞠り、驚く感性(センス・オブ・ワンダー)をなにより大切にした。

 ビジネスの世界では当然、論理能力どころか、相手の腹を探る「読解力」が求められ、さらには苦境を脱する度胸も求められる。こうした能力は、自身が豊穣な体験を積むと同時に、文学作品で危機を擬似的に体験し、自分ならどうやって克服できるだろうか? というシミュレートが大切になってくる。

 ところが現代の日本では、「体験」がおろそかになっていはしまいか。「体験」が欠落しては、プログラミングを学んだとしても、文学を読んだとしても、十分な論理能力や読解力を鍛えることはできない。論理や読解力は、「体験」という山の裾野の広さに支えられた、てっぺんでしかないのだ。基礎をおろそかにして、山を高くすることはできない。

 当人の体験を充実させ、文学で体験・人生を拡張し、その上で読解力・論理能力を鍛える。それが順序のように思われる。なのに、それら基礎をすっ飛ばして、論理だけを鍛えようとするのは、頂だけを見て基礎を掘り崩す行為のように思われてならない。

 子どもたちが豊かな体験を育み、文学を通してさまざまな人生を疑似体験することで自分の人格・体験を拡張し、豊穣な体験から論理を抽出し、読解力を育む。そうした、人間の能力開発の順番を誤らないようにすれば、日本のビジネスも、長期的な発展を見込めるようになるのではないだろうか。