大日本帝国では、雑な精錬で環境中にニッケルを放出するなどというロシアのような贅沢は許されない。そんなことをすれば、非国民である。精神の力で最後の最後までしゃぶり尽くし、石ころを戦争貫徹のためのニッケル資源にするのである。
戦争には全然足りず、戦後役に立つ
戦時中、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という標語があった。帝国臣民の鏡のような精神力で工夫して、何とか石ころからニッケルを作った。しかし、いくら工夫しても足りないものはやっぱり足りなかった。それが日本のニッケル資源だった。
大変分かりやすい話であるが、敗戦後、大江山鉱山も大谷鉱山も1945年8月16日に採掘をやめてしまった。その他の“日本の無理やり”ニッケル鉱山も、1945年のうちに絶滅した。
どれも、元々採算が合うような鉱山ではなく、よほど尻に火がついた状況でもない限り、採掘しようとも思わない鉱山だった。
前述のとおり、銅や、鉛・亜鉛や、金山はそれなりに戦後も生き延びているので、敗戦翌日に終了となったニッケル採掘は、いかに日本のニッケル資源が貧相であったかをよく物語る。
なお、大江山の極低品質の鉱石から、何とかニッケルを精錬しようとした爪に火をともすような努力は、技術力を大いに向上させたようだ。大江山の精錬所は日本を代表するステンレスメーカー日本冶金の工場として今でも操業している。
現在、日本に5か所のニッケル精錬工場があるが、このうち、先ほどの日本冶金大江山製造所(1942年)と住友金属鉱山のニッケル工場(1939年)は、戦争遂行のための建設された工場であった。
非鉄業界は地味なイメージや古い産業のイメージを抱かれる方もいらっしゃるだろうが、現在の日本はニッケルの生産量で世界3位のニッケル生産大国である。
ニッケル資源は全くない。加えて金属精錬では致命傷となる電気料金も燃料費も高い。こんなに金属精錬に不利な日本において、ニッケル精錬がこれほどの規模をもつのは技術力の賜物である。
日本にそうした技術力が蓄積されたのは戦時中、現在よりもさらに不利な環境で、爪に火をともす努力を強いられていたことと無関係ではないだろう。
そこからニッケルを取り出そうとすると、否応なしに技術力が鍛えられるほど質が悪い鉱石。資源に乏しい大日本帝国はそんなものに頼って戦っていたのである。