記事が出たあとは、患者さんが殺到して大変でした。治療を受けた人たちが新たな市民団体も立ち上げました。患者さんが動くとすごいんですね。それがまた新聞に載って、患者さんが増えるという状態でした。
一方、あけぼの会も神奈川支部の幹部が何人か私のところにやって来て、温存療法の講演会をやってくれということになった。「あなたたちもうおっぱいを切っちゃってるじゃないですか」と言ったら、「いやもう1つあります」と言うんだよ(笑)
そして数カ月後に会場にいったら、あけぼの会の神奈川支部だったはずなのにソレイユって名前になってる。どうしたのかと思ったら、近藤の講演会があると聞いた会長が神奈川支部の一人ひとりに「神奈川支部は解散されました」という手紙を送りつけていたんです。
あのあけぼの会にもドラスチックな変化
もともと運営方針を巡って何かあったらしいんだけど、あけぼの会でも支部はついに温存療法に動き始めたわけですね。
川嶋 慶應病院の方はどうなったんですか。
近藤 私の外来の患者紹介は記事が出たその週からすべてストップしました。その代わり乳がん患者がいっぱい来るようになった。文藝春秋の影響は大きいとは思っていたけど、想像以上でした。
新患が週に1人でも2人でも私のところに来れば、患者がいるんだから私を辞めさせることはないだろうと思っていたんだけれど、実際そういうことになったようです。
その後、逸見政孝さんががんで亡くなったことをきっかけに文藝春秋で連載をするようになって、本物のがんとがんもどきの違いについて分析をし始めました。さらにがんの手術、放射線治療、抗がん剤、がん検診などについて深く分析しました。
その1つの集大成が『患者よ、がんと闘うな』という本になったんです。1996年に出版されました。
その中で本物のがんと「がんもどき」の区別をしたことから、がん論争が起きたんです。私のがんもどき説が、すんなり認められようなことがあると、日本のがん治療はほぼ崩壊するでしょう。そこに気づいた専門家たちから強く攻撃を受けることになった。もっとも、反論のおかげで、世間で広く話題になったことはプラスでしたが・・・。
この本を読んで、今度は乳がん患者だけではなく、がん全般に切らずに放置しておきたいという患者さんたちが僕のところに数多く集まってきた。
150人以上、本当に困った症状が出てくるまで、がんを放っておくという人たちが集まってきて、その後の経過をまとめて『がん放置療法のすすめ 患者150人の証言』という本にした。