落語『まんじゅう怖い』は何を描いているのか

『まんじゅう怖い』は、ほんとに他愛ない話で、ただ「お互いに怖いものを言い合う」だけの単純なストーリーです。

 長屋の若い衆が集まって、世間話のついでに「お前さんは何が怖い?」と互いの「怖いもの」を言い合います。

 ヘビが怖い、クモが怖い……などと繰り出し、人一倍知恵のある奴が本当は大好きな『まんじゅう』を怖いと「逆張り」して、大好物を手に入れてしまうという話です。

 そんな何気ない言い合いが、一つのコミュニティを温かく編み上げていく姿にこそ、「コミュニケーションの本質」があるような気がします。つまり、『まんじゅう怖い』という噺(はなし)の面白さは、「みんなで同じ話題に興じる力」、すなわち「共感力」、他愛のない共通の話題で盛り上がる「仲間としての空気感」こそが肝なのです。

 3年前のWBCは、私にとって、まさに『まんじゅう怖い』でした。

「昨日の一打、痺れたね」「いや、私はあの守備が怖かったよ」と、誰もが同じテーマで、時には監督にもなったつもりで「あそこで交代させるべきだった」「いやあ、次が相手チームは左の4番だったからなあ」などと言い合えたことが、役者やスタッフの距離を縮め、仲間意識の情勢に一助となったのでした。

 共通の「怖いもの(あるいは愛すべきもの)」を肴(さかな)に語り合うことのできる楽しさは、人生にとって欠くことのできないもの、大袈裟に言うならば、平和な社会をもたらす大切な要素なのではとも思うのです。

 もし、『まんじゅう怖い』で描かれる長屋の連中が「何が怖い?」と話し合おうとしたとき、隣の八っつぁんが「俺はサブスクに入ってないから、話に入れないよ」と去っていったら、あの落語の滑稽なまでの多幸感は成立するのでしょうか。

 かつて、社会の潤滑油的な役割を果たした野球のような共通の話題、庶民のささやかな話題を一部のプラットフォームが独占し、「有料コンテンツ」に囲い込んでしまう昨今の風潮は、私たちの精神的な豊かさを少しずつ削り取っていくような気がしてなりません。