今年のWBCで失われた“あの”感覚

 役者やスタッフの多くが、WBCの話題に関心を持ち、テレビでも見ていました。現場でも、快進撃を続ける日本代表チームの活躍を報じるテレビやラジオに、皆がくぎ付けとなっていました。

 各自の収録が終わる度に、

「大谷、快投です!」

「打ちました!」

 などの話題で持ち切りだったのです。

WBC日本代表、写真撮影のためグランドに出る大谷翔平(中央)、2026年3月4日撮影=東京ドーム(写真:スポーツ報知/アフロ)

 セットの裏側で、あるいは休憩時間のわずかな合間に、

「今の見ましたか?」

「大谷があそこで……」

 と交わされる言葉は、初対面の役者・スタッフの間で“緩衝材”としての役割を担うようになりました。ベテランの國村隼さんとラジオを真ん中に置きながら休憩中に飲んだコーヒーの味は、インスタントでしたが格別でした。

 私は大家で、國村さんは大店の主という役柄の壁を越えて、WBCのプレーに一喜一憂する……。

 それ以降、國村さんと打ち解けてゆくにつれ、野球は単なるスポーツではなく、見知らぬ者同士をつなぐ「最強のコミュニケーション・ツール」だなぁと感謝した次第です。

 他方、今年のWBCはどうでしょうか。

 特定のプラットフォーム(編集部注:ネットフリックス)に加入しなければ、その熱狂の輪に加わることが許されないのです。この事実に、大仰かもしれませんが、言葉にしがたい「世知辛さ」を覚えずにはいられません。

 かつてテレビは、スイッチ一つで世界と繋がれる「開かれた窓」でした。裕福な家庭も、生活のやりくりに苦心する庶民も、同じ夜に同じ画面を見つめ、翌朝の駅のホームや職場の給湯室で「共通言語」を交わすことができていました。そこには、さまざまな立場を一時的に忘れさせてくれる「情報の平等性」があったようにも思えます。

 ところが、人気スポーツイベントの放映権高騰という「現代資本主義の理屈」によって、落語会でいうところの入場料、「木戸銭」が課されるようになりました。「金を払った者だけが、共通の話題に入る権利を得る」というものです。

 このドライな選別は、私たちの社会から「ささやかな共通の楽しみ」を奪い、コミュニティを細分化させているようにすら思えます。この先、オリンピックのような“人類共通の祭典”すらも、サブスク課金のクローズドな空間に閉じ込められてしまう未来が訪れてしまうのではと、心配になります。

 このWBCで思い出される落語があります。『まんじゅう怖い』です。