現代は、あらゆるパフォーマンスが数字になる時代だ。歩数も心拍数もスマートウォッチが記録し、営業成績はダッシュボードでチーム全員に共有され、スキルはAIがスコアリングする。「自分の限界」を否応なく突きつけられる毎日を、私たちはすでに生きている。
だが、その数字が「下り坂」を示したとき、素直に受け入れられるだろうか。たいていの人は「経験値でカバーできる」と思いたがる。若手が台頭しても「まだ早い」と蓋をする。誰かに肩を叩かれるまで待つ。
千代の富士は違った。好角家で作曲家の三善晃は、引退報道に接してこう語っている。
「年齢の問題より、彼が大事にしていた瞬発力がなくなったように見えた」
熱心なファンが外から見て感じたことを、千代の富士は土俵の上で、自分の体を通してもっと早く感じ取っていた。そして「まだやれる」と自分をごまかす代わりに、自分で幕を下ろした。
「体力の限界」は、一見すると敗北の言葉に聞こえる。だがその本質は、「これ以上、衰えた自分を土俵に上げるわけにはいかない」というプロの矜持だ。
「潔白」の裏側…消えない八百長の影
千代の富士の引き際を語るとき、避けて通れない話題がある。大相撲の八百長疑惑だ。
2000年1月、日本外国特派員協会の講演に元小結・板井圭介が立った。デビューから26連勝の史上1位記録を持つ実力者だったが、1991年の引退後に年寄名跡の襲名を否決されて廃業した人物だ。
板井によれば、「1984年から91年」――千代の富士の全盛期だ――が「最もひどい八百長時代」だったという。
1日30番のうち真剣勝負は5〜6番、少ない日は3番。バブル景気で後援者からの祝儀が莫大になり、八百長の資金が潤沢に流れていたとも述べている。
千代の富士自身はどうだったのか。「千代の富士は?」と問われた板井の答えはこうだ。「横綱、大関間の話はよくわかりません」。直接の名指しは避けている。一方で板井は「大乃国だけは八百長をやってなかった」と明言した。
この大乃国が、話に奥行きを与える。1988年九州場所千秋楽、53連勝中の千代の富士を止めたのがこの男だった。当時の大乃国は10勝4敗。優勝争いとは無関係の立場で、千代の富士を豪快に寄り倒した。
ある親方いわく、「勝負に対しては潔癖すぎるほど潔癖だった」。角界で「北向き」――周囲と同調しないこと――と呼ばれる姿勢を貫いた力士だった。