本田の創業者、本田宗一郎氏(写真:産経新聞社)
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 1973年10月29日は戦後日本の産業史にとって忘れられない一日になった。本田技研工業(以下、ホンダ)の創業者・本田宗一郎(66歳)と副社長・藤沢武夫(62歳)が同時に現役を退いたのである。2人はホンダを世界的企業に育て上げたパートナーだった。

 本田は技術者として技術開発に明け暮れ、藤沢が経営戦略と財務の全権を担った。その2人がまだ現役を続けようと思えば続けられるのに、会社を去る。

 後継者に選ばれたのは、45歳の河島喜好だった。創業者の親族ではなく、本田が育てた生え抜きの技術者だった。この世代交代は、50年後の今日から見ても、日本企業の経営者の「引き際」の理想形のひとつとして語り継がれている。

「水冷か空冷か」技術論争が露呈した世代間ギャップ

 物語は1970年に遡る。米国で成立した大気浄化法(通称マスキー法)は、1975年までに自動車の排気ガス中の有害物質を90%削減するという、当時の技術水準では「不可能」とされた基準を要求していた。GM、フォード、クライスラーの米国ビッグスリーでさえ達成困難として実施延期を求めていた。

 ホンダの研究所では、この難題への対応を巡って激しい技術論争が続いていた。エンジンの冷却方式には、水冷と空冷の2つのアプローチがあった。水冷は冷却水を循環させてエンジンの熱を吸収し、ラジエーターで放熱する方式で、より精密な温度管理が可能だ。

 一方の空冷は、エンジンに直接風を当てて冷却する方式で、構造がシンプルで軽量という利点がある。若手技術者たちは水冷エンジンの必要性を主張した。精密な温度管理によってクリーンな燃焼を実現するには、水冷技術が不可欠だというのが彼らの結論だった。

 一方、創業者の本田は空冷エンジンに固執した。「水冷だって結局はラジエーターを空気で冷やすんだろう? なら最初から空気で冷やせばいいじゃないか」。これが彼の持論だった。

 技術論争は深刻化し、ある技術者は辞表を残して姿を消した。別の若手エンジニアたちは密かに水冷エンジンの設計を進めたが、本田に発覚して即座に中止させられた。後に3代目社長となる久米是志に至っては、会社への出社を拒否するほどだった。

 この危機的状況を見かねた藤沢武夫が、ついに20年間守り続けた不文律を破った。技術には一切口を出さない――それが2人の約束だったが、藤沢は本田に問いかけた。

「あなたはホンダの社長としての道をとるのか、それとも技術者としてホンダにいるべきだと考えるのか。どちらかを選ぶべきだろう」

 長い沈黙の後、本田は答えた。

「俺は社長をしているべきだろう」

「じゃあ、水冷でいくんだな?」

「ああ、若い連中に任せるよ」

 この瞬間、本田宗一郎は技術者としての自分に別れを告げた。