パナソニック(松下電器)創業者の松下幸之助=1975年1月撮影(写真:産経新聞社)
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 2025年7月の参院選まで、あと1カ月。各党が公約を掲げ、候補者たちが街頭で声を張り上げる季節がやってくる。しかし、その中に誰もが夢を抱ける大胆なビジョンを語れる者はどれほどいるだろうか。「財源は?」「現実的ではない」という批判を恐れ、小さくまとまった政策ばかりが並ぶだろう。

 そんな現代の政治家たちとは対照的に、死の直前まで日本の未来を憂い、政治改革に命を賭けた経営者がいた。松下電器産業(現パナソニック)の創業者、松下幸之助である。「経営の神様」松下幸之助の晩年は、ビジネスの世界から身を引き、日本の政治改革に命を賭けた日々だった。

経営の一線を引いてからは政治に情熱を

 1982年の冬、雪の降る週末。東京・田園調布のウシオ電機会長、牛尾治朗宅で電話が鳴った。羽田空港に着いたばかりの松下幸之助からだった。

「どこかホテルで会いましょう」という牛尾を押し切り、幸之助は牛尾邸を訪れる。応接室で切り出したのは、新党旗揚げの話だった。すでに87歳。普通なら悠々自適の隠居生活を送る年齢だが、幸之助の政治への情熱は衰えるどころか、ますます燃え上がっていた。

牛尾治朗氏と対談する松下幸之助氏=1978(昭和53)年12月5日(写真:共同通信社)

 幸之助の政治への強い関心は、戦後の苦い経験に根ざしていた。9歳で火鉢店の丁稚となり、自転車販売店や今の関西電力に勤めたのちに22歳で独立。電球のソケットの開発販売で成功し、戦前には自社を日本有数の電気器具メーカーにまで成長させた。

 しかし戦後、GHQから財閥指定を受け、公職追放寸前の憂き目に遭う。負債は膨れ上がった。

「この時ほど不本意でさみしい思いをしたことはない」

 後に幸之助はそう語っている。

自ら法被を着て戦後の復興に励む松下幸之助氏。撮影されたのは1946年、松下電器がもっとも苦しかった時代だ(写真:共同通信社)