一方、テヘランの金曜礼拝の壇上では、有力なイラン聖職者たちが「交渉の即時打ち切りと聖戦による反撃」を公然と叫んでいる。とりわけ、イランの最高指導者ハメネイ師は「米国の空母を沈める能力がある」と宣言し、イランが2025年6月に行ったカタールの米軍基地への単一打撃という茶番めいた報復レベルとは、全く次元の異なる反撃を想定していることを明確に示している。今回、イラン側がイラン・イスラム共和国体制の存亡の危機を感じているとすれば、その反応は非合理なものとなり得る可能性すらある。

「宙吊り状態」は軍事的理性の産物である

 マッカーサーは「戦争において勝利に代わるものはない」と断言した。逆説的に言えば、「勝利の定義が定まらぬまま開戦すること」こそ、最も危険な行為となる。

 2026年2月26日に至るまで、米国がイランを攻撃していない理由は、臆病でも優柔不断でもない。「政治的目的が目標であり、戦争はそれに到達するための手段」というクラウゼヴィッツの原則に真剣に向き合うならば、現状のトランプ政権は以下のどの目的遂行によって最終的な「勝利」を得られるのか明確に答えられていないからだ。

 核施設破壊を「勝利」とするならば、昨年6月の核施設攻撃は、トランプ大統領自身の勝利宣言を除いて、米国が望んだ結果であったとは言い切れない。核関連施設は再建され得るのだから。

 体制転換を「勝利」とするならば、そもそもIRGCという宗教・軍事・経済社会の三位一体の複雑な体制は、空爆では簡単には打破できない。

 交渉妥結を「勝利」とするならば、空爆後にイランが交渉に戻り、即座にディールが成立するという保証は誰もできないだろう。

 ケイン将軍が「消極的な戦士」と評されるのは、将軍が臆病だからではないだろう。それは、将軍がクラウゼヴィッツとマッカーサーが等しく教える戦争の鉄則を体現しているからだ。「何を達成するための戦争か」という問いに明確な答えが出るまで宙吊り状態でいられることは、むしろ国家にとって正気の選択であり続ける。

 だが同時に、ドラマに登場した銃は最終幕で必ず撃たれなければならないとすれば、膨大な軍事資産を中東に展開し続けることそれ自体が、政治的圧力の増大と偶発的エスカレーションのリスクにつながっていることも事実だ。

 宙吊りの状態は「安全」でも「安定」でもない。それは導火線を誰も握っていない爆弾に、世界が引き込まれる状態に等しいからだ。

 それでは、この導火線に火をつけるのは果たして誰になるのだろうか。トランプ大統領自身か、あるいは第三国か。

 このような軍事的な緊張状態を遠目に、ここにきて2月22日以降連日のように、テヘランやマシュハド、シーラーズなどの多くの大学キャンパスにおいて、イラン人学生たちが改めて抗議の声を上げ始めている。これに応えるように、レザ・パフラビー元皇太子もこうした勇敢な学生に対する応援のメッセージを伝えている。

 ひょっとすると米国によるイラン攻撃の有無以上に、イラン各地の大学で若者たちが、1月初頭の虐殺被害者への追悼として、「流された血は、何ものによっても洗い流せない」と叫ぶ姿こそ、イランの近未来を正しく占う上で私たちが最も注目すべきなのかもしれない。