一連の発言・対応は政治不信を招きかねない

 政治系の切り抜き動画は、若年層の政治への関心を掘り起こしている側面がある一方で、再生回数に応じて広告収益を得られる仕組みがある。そのため、耳目を引く情報の拡散を助長しているとの懸念は根強い。政治も例外ではないように思われる。

 言うまでもないことだが、本来、政治家の言葉には重い責任が伴っている。その一言が政策や外交、あるいは他者の名誉に多大な影響を及ぼしうる。今回の事案は、人気商売という側面を持つ政治家が、支持拡大という個人的・党利的な動機と、公人としての慎重な振る舞いをバランスさせることに失敗した典型例といえる。

 成熟した自由民主主義社会において、権力を監視し、政府や与党の矛盾を徹底的に掘り下げることはメディアの重要な役割である。番組内で踏み込んだ質問や対話の促しがあったとしても、最終的に個々の政治家が、どの情報を、どのように発言するかは政治家本人の責任であり、慎重になされなければならない。

 2025年3月の公選法改正では、候補者応援を目的とした立候補や品位を欠くポスターに関する規定が盛り込まれた。しかし、SNSに対する規制強化は憲法が保障する「表現の自由」との兼ね合いから議論が難航した。法制化は先送りされている。

「衆議院選挙制度に関する協議会」でも選挙ビジネスやフェイクニュースへの対応が論点として示されているものの、具体的な対策は今後の課題とされている。

 こうした制度に関する議論は重要だが、同時に改めて政治家という公人として発信する側が「話してよいライン」と「超えてはならないライン」を再確認することも重要ではないか。メディア環境の変化にあわせてその境界線を見失えば、ネット上での健全な対話どころか単なる混乱を招くことになるだろう。

 今回の騒動後、国光氏がSNSアカウント自体を削除したことは、批判からの回避とも、反省の表明とも受け取れる。公式には一切説明をせず、アカウントを削除して「逃亡」するような対応は政治家への信頼を毀損し、政治不信を招来しかねない。

 現代の政治家は、国民に対する説明責任を果たすために新しいメディアを積極的に活用すべきであることは明らかだが、感情的な伝聞を事実のように語ることは、結果として政治不信を助長し、自らの首を絞めることになる。閣僚や副大臣による不祥事が続けば、政権の支持基盤も揺らぎかねない。

 SNS時代の政治コミュニケーションにおいて、政治家には瞬発力と同等かそれ以上に裏付けに基づいた「言葉の重み」を制御する知性と規律が求められている。

 政治家の発言は、いったん発信されれば切り抜き動画として広く拡散することがあるし、支持者の攻撃的な発言を誘発し、社会の分断を深める契機ともなりえる。そのことが改めて意識される必要があるだろう。