球界に大きな影響力を誇った渡辺恒雄氏(中央)。2001年9月、長嶋茂雄氏が巨人の監督を辞任した時の会見時の写真。右は原辰徳氏(写真:共同通信社)
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「球界のドン」「メディア王」「戦後政治最後の証言者」として知られる読売新聞代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が、2024年12月19日に亡くなった(享年98)。一新聞記者でありながら、大物政治家と昵懇の間柄を通じて、昭和期に水面下で政治を動かした渡辺氏はやがて読売新聞の主筆となり、平成期には社長、そして読売巨人軍の球団オーナーにもなった。

 渡辺氏は平成期に何を成したのか。渡辺氏の死去から1年になる現在、『独占告白 渡辺恒雄 平成編 日本への遺言』(新潮社)を上梓したNHK大阪放送局 報道番組チーフ・プロデューサーの安井浩一郎氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──平成期の渡辺恒雄さんの特徴はどんな点にありますか?

安井浩一郎氏(以下、安井):私は3点あると思います。1つは当事者として政治に深く関与したことです。渡辺さんは昭和期から政治に関わってきましたが、当時は局所的・部分的な関与にとどまっていました。

 それが平成期になると、連立政権の枠組みなど国の方向性を左右する、よりスケールの大きな動きに関わっていきます。1999年の自民党と自由党の自自連立、2007年の自民党と民主党の大連立など、渡辺さんの水面下の動きが鍵を握った場面は何度もありました。

 2点目は、巨人軍オーナーとしての球界への影響力です。球界の憲法とも呼ばれる「野球協約」の正確な知識と解釈に基づいて、渡辺さんは球界のゆくえにも大きな影響力を持ちました。

 3点目は「提言報道」を強く打ち出したことです。経済、社会保障、行政改革など、さまざまな分野で客観報道にとどまらない提言報道を打ち出し、3度にわたって読売新聞紙上で「憲法改正試案」を発表しました。

 一方で戦争体験を持つ渡辺さんは、総理大臣の靖国神社参拝に強く反対し、軍や政治指導者の戦争責任を検証する大型連載も主導しました。戦争を厳しく問い直す論調を強めていったのも平成期の渡辺さんの特徴です。

──渡辺さんが、球界で絶大な影響力を持つことができたのはなぜだとお考えになりますか?

安井:渡辺さんは、もともと野球にほとんど関心を持っておらず、長嶋茂雄さんと王貞治さんが活躍したON時代がいつのことかも分からず、グラブにも触ったことがなかったといいます。初めて野球観戦をしたのも60歳の還暦間近で、その時も選手が球を打ったら一塁に走るのか三塁に走るのか、三振とフォアボールは何が違うのかも分からなかったそうです。

 そんな渡辺さんが、なぜ球界で絶大な影響力を持つに至ったのか。それは、日本プロ野球界の憲法といわれる「野球協約」に深く精通していたからです。

 野球協約とは、日本野球機構(NPB)が、ドラフト会議のルールなど球界運営のルールを明記した協約です。渡辺さんはこの野球協約を常にかたわらに置いて六法全書のように読み込み、その内容の的確な理解を元にオーナー会議で発言し、球界の方向性を主導しました。

 取材をさせていただいた元巨人軍代表の山室寛之さんによると、巨人軍オーナーになる前から渡辺さんの「令名」ならぬ「雷名」は球界にも轟いていたそうです。よく知られた中曽根康弘元総理との関係をはじめ、渡辺さんが政財界に非常に強い人脈を持つことは当時からよく知られた事実でした。

 加えて、渡辺さんが長年取材してきた政治の世界では、本会議や委員会の定足数や可決に必要な割合などのルールが数多くあり、それを前提として与野党は駆け引きを続けてきました。その攻防を間近で取材してきた渡辺さんからすれば、野球協約をもとに球界を主導していくことは、極めて容易なことだったのではないかと、山室さんはおっしゃっていました。

 つまり、政財界との人脈があったことと、組織運営に精通していたことで、渡辺さんは球界でも大きな影響力を及ぼすことができたのだと思います。