野球協約を深く分析するようになったきっかけ
──誰よりも野球協約を分析したのですね。
安井:渡辺さんと野球協約の最初の出会いは1978年の「江川事件」でした。1978年のドラフト会議の前日に、巨人軍が江川卓選手と電撃的に契約を結んで大きな騒動となった事件のことです。
当時の野球協約では、前年のドラフト会議で球団が得た交渉権は、その次の年のドラフト会議の前々日(2日前)に喪失するとされていました。ドラフト会議前日は、協約の盲点となったいわば「空白の一日」で、巨人軍はそれを突く形で江川選手と契約を結びました。
記者時代の渡辺さんは、この事件の事後処理を託されたのです。
渡辺さんはかつて政治記者として自民党の大野伴睦氏に食い込んでいましたが、その派閥の出身議員だった船田中氏が、江川さんの出身高校だった作新学院の理事長でした。そこで、渡辺さんが交渉を担うことになったといいます。球界との接点の最初の段階から、野球協約と関わっていたことに、渡辺さんと協約との因縁を感じます。
渡辺さんは事後処理の過程で、野球協約を学ぶ必要を痛感したそうです。その後、野球協約に関する深い知識と解釈能力を駆使して、フリーエージェント制や逆指名制度、横浜ベイスターズの株式譲渡をめぐる騒動、近鉄バファローズの命名権の売却騒動などでも、渡辺さんは球界の方向性を主導しました。
──2004年に1リーグ制移行を含む再編問題で球界が揺れていた際、巨人軍のオーナーだった渡辺さんが、日本プロ野球選手会の会長だった古田敦也さんのことを「たかが選手が」と発言し、注目を集めた件についてもページが割かれています。安井さんは、渡辺さん本人からその時の真意について聞いていますね。
「たかが選手が」発言の真意
安井:当時のプロ野球は「球界再編」をめぐって大きく揺れていました。近鉄とオリックスの合併という動きに端を発して、後に別の合併話も進行中とされ、2リーグ制の野球界を1リーグ制に移行しようという動きがありました。半世紀近く続いた12球団による2リーグ制が崩壊しかねない状況だったのです。
渡辺さんの「たかが選手が」という発言は、1リーグ制への流れが方向付けられた2004年7月7日のオーナー会議の翌日夜にあった発言です。会合からほろ酔い加減で出てきた渡辺さんは記者団に囲まれ、そこでこの発言が飛び出しました。
記者から「古田敦也選手会長がオーナー陣と会いたいとの意向を持っている」と問われた渡辺さんは「無礼なことを言うな。分をわきまえないといかんよ。たかが選手が。たかが選手だって立派な選手もいるけどね。オーナーと対等で話をする協約上の根拠は1つもない」と答えたのです。
この「たかが選手」という発言に世間の批判が集中して、1リーグ制への流れが頓挫する大きな転換点になりました。2リーグ制を維持したいと考える古田選手ら選手会側への同情論が広がったのです。
ただ実際には、古田選手は「オーナーに会いたい」とは発言していませんでした。渡辺さんは、ありもしない前提に基づく「はめ取材」であり、イエロージャーナリズムの餌食にされたと当時を振り返り、憤慨していました。
「赤字になっているパ・リーグを助けようと一肌脱いだのに、足を引っ張られた。だったら勝手にしやがれ」と思ったと私たちのインタビューでも語っています。そのうえで「今でも1リーグ制にしたほうがプラスだと思う」とも語っていました。