アメリカ社会の分断が一段と深刻さを増しています。人種や地域の亀裂、深刻な経済格差、そしてインターネットとSNSがもたらした「極端な声」の増幅など、米国社会の分断の火種は何か。そして対話の糸口はどこにあるのか。長年にわたり日本とアメリカの文化を行き来し、両国の空気を肌で感じてきた翻訳家の兼光ダニエル真氏に、ドイツ出身で長年日本に暮らす著述家のマライ・メントライン氏が話を聞きました。2回に分けてお届けします。
※JBpressのYouTube番組「マライ・メントラインの世界はどうなる」での対談内容の一部を書き起こしたものです。詳細はYouTubeでご覧ください。
(収録日:2025年11月12日)
分断の火種は「南北戦争」に遡る
マライ・メントライン氏(以下、敬称略):米国社会の分断の火種は何ですか。
兼光ダニエル真氏(以下、敬称略):米国の分断について整理する上で前提として、米国は移民国家で、さまざまな地域や背景を持つ人々が、価値観をできるだけ共有し、民主的な制度を通じて国を作るという理念のもとで統合されてきました。
しかし同時に、自由貿易で発展した北部と、奴隷制に依存した南部という構造的な分断が存在しました。歴史上で絶対に外せないのが「南北戦争」です。1861年から1865年にかけて南北戦争が起き、北部が南部を打ち破り、奴隷制は廃止され、州の権限も一定程度弱められました。
ただ奴隷解放後も、南部では黒人を二級市民として扱う法制度や慣行が残り続けました。形式上は自由でも、実質的な差別が温存されていたのです。
マライ:それはいつまで続いたのですか?
兼光:1960年代の公民権運動までです。
奴隷制の廃止後も、識字テストなどによって黒人の投票権を事実上奪うなど、極めて不利な仕組みを続けていました。1960年代になると、こうした状況を是正しようという公民権運動の大きな流れが生まれます。マーティン・ルーサー・キング Jr. をはじめ、ケネディ政権、ジョンソン政権のもとで、公共施設の利用や教育の平等が強く求められました。
当然、激しい反発もありました。南部の白人層は「生活圏を脅かされる」「職を奪われる」と感じ、州知事が州兵を動員して黒人の入学を阻止する事件まで起こりました。それに対して連邦政府が介入し、最高裁の判断を根拠に、公立学校の統合が進められました。
公民権運動は黒人の権利問題にとどまらず、貧困対策、女性の権利、福祉政策など、人権全般へと広がっていきました。アメリカ社会にとって大きな転換点だったことは間違いありません。