人間が人間の心を忘れるとき
──本書では「共感と人間理解は異なっていて、本当に他人を理解するためには、むしろ他者と自分を切り離さなくてはならない」と書かれていました。これはどういうことでしょうか。
恩蔵:他者理解の鍵として、私は「安全基地」という概念をとても大事にしています。もともとは発達心理学の言葉で、子どもが安心して冒険に出ていくための拠点となる存在を指します。
子どもは、滑り台に挑戦するとき、必ず「見て見て!」と声をかけてきますよね。これは、うまくいかなくても、この人が見ていてくれて、何かあれば助けてもらえるという確信があるからこそ、未知の世界に踏み出せる表れだと考えています。そうやって冒険を支える存在が安全基地です。
ところが、誰かを大切に思うあまり、私たちはしばしば「相手と同じ気持ちになろう」としすぎてしまう。介護している親やパートナー、子どもに対して「この人のためを思って」と共感を深めていくうちに、いつのまにか相手をコントロールしようとしてしまうんです。
私自身、母の介護でその難しさを痛感しました。大事に思えば思うほど、「こうしてあげるのが正しい」と相手の時間の流れや失敗の仕方を尊重できなくなる。共感が行きすぎると、むしろ相手の心が見えなくなるのです。
本当に他者を理解するとは、相手を自分と切り離し、「あなたはあなたとして自由に冒険していい」と認めることだと思います。そのうえで、「何かあったら戻っておいで」と言える存在になること。安全基地になることこそが他者理解の土台なのです。
──本書では現代のSNSについても書かれていましたが、私たちの脳や認知にSNSが与える影響とはどんなものですか。
恩蔵:一言でいえば、「人を表層的にする」方向に働きやすいと思っています。短いテキストや写真だけでやりとりが完結する場では、身体感覚や時間をかけた対話といった「めんどうな部分」が切り落とされる。X(旧Twitter)などで炎上が起きやすいのは、その表層のやりとりだけで判断が進んでしまうからです。
特に影響が大きいのは、思春期の子どもたちです。
自己と他者の境界を模索し、仲間の価値観を取り入れながら自分をつくっていく時期に、SNSは無数の「比較対象」を差し出してきます。キラキラした投稿の数々を前に、自分だけが取り残されているように感じてしまう。各国で思春期の子どもたちのSNS利用制限が議論されているのは、その危うさへの危機感の表れでもあります。
もちろん、SNSは決して「悪」ではなく情報収集や仕事の上でも、もはや手放せないインフラになっています。ただ、その世界に浸りきると、「かけがえのなさ」が削られていく危険もある。うまくできないところ、失敗してしまうところ、腹が立ってしまうところなど、感情のような面倒くさいものに学びがあることを忘れないようにしたいと思います。
AIやSNSが提供してくれる「表層的な世界」に身を委ねきるのではなく、自分や他者の中にいる「わずらわしいもの」と付き合い続けること。そのときにこそ、人間の心が見えてくるというか、そうしないと人間の心を忘れてしまうのではないかと考えています。