さらに1988年にはソウルオリンピックでも活躍した潮崎哲也が西武からドラフト1位で指名され入団している。潮崎は当初は救援、のちに先発投手として全盛期の西武のマウンドを支えた。
21世紀に入っても、ヤクルトでクローザーとして活躍した秋吉亮が2013年、ドラフト3位で入団。オリックスのセットアッパーとして活躍した近藤大亮が2015年ドラフト2位で入団している。
名門チーム休廃部の歴史
関西を代表する社会人野球チームだけに、その休部が与える影響は計り知れない。
都市対抗野球に30回以上出場したチームの廃部・休部の事例を挙げると、以下のようになる。
・熊谷組(東京都) 都市対抗34回出場1回優勝、日本選手権2回出場
→1993年廃部
・大昭和製紙(富士市) 都市対抗36回出場2回優勝、日本選手権2回出場
→1996年廃部
・新日本製鐵八幡(北九州市) 都市対抗37回出場2回優勝、日本選手権9回出場
→2003年廃部
これらに次いで4例目となるパナソニックは、実績では上記3チームを上回っている。
社会人野球と都市対抗野球
日本の社会人野球は、野球がアメリカから伝来して6年後に、鉄道関係者が作った「新橋クラブ」が最初とされる。その後、鉄道会社や造船会社などが次々と野球チームを保有するようになり、大規模な大会なども実施されるようになった。
早稲田大学野球部主将の橋戸信と、慶應義塾大野球部エースの小野三千麿は、ともに東京日日新聞(のちの毎日新聞)の記者(橋戸は客員)になったが「春、秋の大学野球に匹敵する野球大会を創出できないか」と考え、「アメリカの大リーグは各都市を代表して試合をしている。同様に都市名を冠した大会を作れば盛り上がるのではないか」との発想から都市対抗野球大会を思いついた。これが本格的な社会人野球の始まりだ。