(写真:Nate Rosso/Shutterstock)
野球関係の会合に出ると「日本の野球界は『学歴社会』だ」としみじみ実感する。
自己紹介の時には「あいつは、俺と高校の同期で、あの人は先輩で、彼は何年後輩で」みたいな話から入ることが多い。大学の場合は大学が違っていても「東京六大学で一緒にやっていた」みたいなのも重要らしい。
一般社会では、大卒の人と高卒の人が学歴について話すことはそれほどないように思うが、野球界では「あいつは高卒でプロに行って、俺は大卒で4年遅れた」みたいな話もよく聞く。花巻東高からプロに行った大谷翔平は、4年後、創価高、創価大からソフトバンクに入団した田中正義(現日本ハム)を「ジャスティス」と呼んでいる。プロ入りは4年遅いが、高校同期だから「タメ(タメ口を聞く仲間)」である。
高3の夏に高校中退、すぐにプロのマウンドに立った金田正一
戦前の学制は、今よりかなり複雑だった。6年制の尋常小学校を出ると、5年制の中等学校や、2年制の高等小学校に入る。戦前の甲子園大会は中等学校と同年代の実業学校(商業学校、工業学校など)、師範学校の大会だった。
プロ入りする選手は、中等学校出が大半だったが、西沢道夫は高等小学校を出て名古屋軍(現中日)に16歳で入団。日本人選手ではこれが最年少のプロ野球選手だった。西沢は戦前は投手、戦後は打者として活躍し、野球殿堂入りしている。
戦後の1948年になって学制改革が実施され、中等学校、実業学校は高等学校、師範学校は教育大学になった。
しかし初期には、高校中退でプロ入りする選手がしばしば見られた。
NPB史上最多の400勝を記録した大投手、金田正一は享栄商高3年の春に国鉄スワローズにスカウトされ、1950年に高校を中退して入団している。
国鉄スワローズ時代の金田正一。1951年9月撮影。この前年の夏に、金田は高校を中退して入団した(写真:共同通信社)
後のジャイアント馬場、馬場正平は、高校時代は投手で三条実業高2年の秋季大会で敗退。1955年に中退して巨人に入団した。スカウトの源川英治は「最年少のプロ選手ですな」と言った。
その後、プロ野球は、高校、大学、社会人を経て入団するのが一般的になった。
