しかしPL学園硬式野球部は2016年夏を最後に休部。今年のパ・リーグのベストナインにオリックスの中川圭太が初めて選出されたが、今のところ彼と、このほど楽天に復帰が決まった前田健太が、PL学園出では「最後の現役選手」になる。

 中等学校野球に端を発する高校野球は今年で110年の歴史を数える。全国各地に「古豪」「強豪」と言われる名門校があり、多くのプロ野球選手を輩出している。殿堂入りするような大選手の多くは、こうした名門校の出身だが、中には、全く無名の高校からプロ入りして大選手になったケースもある。

野球では無名の高校から自力で道を開いた長嶋、野村、稲尾…

 打者ではその筆頭格が今年逝去した長嶋茂雄だろう。千葉県立佐倉一高から立教大学を経て1958年に巨人に入団した。

 佐倉一高(現佐倉高)は、江戸時代の佐倉藩の藩校に端を発し、地域のエリートを育ててきた名門校で、戦前から大臣、国会議員を多数輩出、文化勲章を受章した建築家伊藤忠太なども卒業生だが、甲子園出場は一度もなし。

 長嶋が3年生の1953年には南関東大会で準々決勝まで進み、埼玉県営大宮球場での熊谷高戦で長嶋はセンターバックスクリーンに飛び込む大ホームランを打った。これが関係者の目に留まり、立教大進学につながったが、この大会も含め、ベスト8以上に進んだのは2回だけ。プロ入りした選手は、長嶋も含め3人だけだ。ONと呼ばれた王貞治と長嶋茂雄は、学歴もきわめて対照的だったのだ。

巨人の川上哲治選手(右)と対談した立教大学時代の長嶋茂雄=1957年11月(写真:共同通信社)

 史上2位の657本塁打、2901安打を記録した大捕手、野村克也を輩出した京都府立峰山高も無名校と言えよう。母子家庭で育った野村は、高校で野球を始め、抜群の才能を現した。峰山高の監督はプロのスカウトに手紙を出したが、南海の鶴岡一人監督だけが返事をくれて野村のプレーを見た。

 これがきっかけとなって野村は南海にテスト生で入団。肩が弱かったため1年目のオフに解雇されそうになるも何とか踏みとどまり、3年目のハワイ春季キャンプに「カベ(ブルペン捕手)」として帯同を許され、周囲の選手が浮かれる中で、鶴岡監督にその実直な性格を認められた。ハワイから帰国した鶴岡監督は「このキャンプの収穫は野村だけや」と記者団に話した。ここから野村の運が開けた。

 なお峰山高は1999年、春の甲子園に初出場。初戦で敗退したが、この年、阪神の監督に就任した野村は500万円を母校に寄付している。