【代役】兄とともに一向一揆に立ち向かう

 秀長はしばしば秀吉の「名補佐役」と評される。間違いではないが、秀長の秀でたところは、兄・秀吉をサポートしただけではなく、時に代役も果たしたことにある。

 天正2(1574)年、信長は過去に二度も鎮圧に苦慮した、伊勢長島の一向一揆衆に対して、三度目の正直とばかりに大動員令を発した。

 だが、このとき秀吉は越前一向一揆に備えて現地入りしていたため、代わりに弟の秀長が羽柴隊を率いることとなった。

 信長の馬周り(大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令を行う役目のこと)であった浅井新八(信広)とともに、秀長が一揆勢と戦ったことが、織田信長の一代記である『信長公記』に記されている。

 また同じく『信長公記』によると、天正5(1577)年10月の時点では、秀吉が攻略した但馬の竹田城の城代(城主の代わりに城を守り、政務を代行する役目のこと)を秀長が務めていたようだ。

 さらに、秀吉が播磨・但馬の攻略を行うにあたっては、秀吉は姫路城を拠点として動く一方で、但馬方面では秀長が活躍した。その様子が、やはり『信長公記』の記録からうかがえる。

「姫路に、羽柴筑前守秀吉 在城あるべく相定め、普請申し付け、これより、羽柴筑前守舎弟  木下小一郎に人数差し加え、但馬国へ乱入し、即時滞りなく申し付く。木下小一郎は、小田垣居城にこしらえ、手の者ども見計らい、所々に入れ置き、両国平均に侯ヘき」

 自身は姫路城に身を置きながら兵を与えると、弟は兄の期待に応えたようだ。「小田垣居城」というのは、城主の太田垣氏から奪った竹田城のことで、ここを拠点としながら、秀長は「両国平均」、つまり、秀吉とともに播磨と但馬を攻略し、平定することに成功した。