選手としての転機になった恩師の言葉

 私は中学ではレギュラーにはなれませんでしたが、3年生の時に佐次先生から掛けていただいた言葉は今も忘れません。

「レギュラーだけがすべてじゃないぞ。大塚には大塚の役割がある。大事なところで出番があるから、そこで頑張ってくれ」

 この言葉があったからこそ、私は「長打は打てなくても、自分にできることをやっていこう」と考え方を切り替え、小技を磨きました。

 苦手だった変化球打ちも自主練習で克服して、背番号10の控えの内野手としてベンチ入り。「ここでどうにかして走者を進めたい」「なんとかして得点を取りたい」という場面でヒットエンドランやスクイズを決める役割を与えられるようになりました。

 チームは茨城県大会で優勝。関東大会でベスト4に勝ち上がり、全国中学校軟式野球大会に出場しました。

 全国の舞台では私の出場機会はなかったのですが、チームはベスト8入り。レギュラーだけではなく、選手一人ひとりがチームのために役割を果たす。その大切さを学んだ3年間だったと思います。

 常総学院高校に進学すると、マネジャーに転身。当時のチームには、同級生に宇草孔基(2025年まで広島)、1学年下に鈴木昭汰(現・千葉ロッテ)がいた。2年時(2014年)の秋の関東大会でベスト4入りして、翌2015年の選抜高校野球大会に出場。ベスト8に進出した。大塚さんはマネジャーとして、選手だった経験をどう生かしたのか?

 選手としてプレーしたのは中学まで。高校の女子野球部で選手を続けることも考えたのですが、当時は高校の女子野球部が増え始めた頃で、自宅から通える範囲の学校にはまだありませんでした。そのため、裏方として野球を続けようと決意しました。

 中学時代になかなか試合に出られなかったけど、チームのために働いた。その経験を生かして、マネジャーになってチームの一員として戦いたい。せっかくやるなら、甲子園へ行きたい。そう考えて、常総学院高校(茨城)に入学して、野球部のマネジャーになりました。

 女子マネジャーが担当するのは、グラウンド周りの仕事が主でした。補食づくり、監督室やトイレの掃除、成績の集計、お客様の対応などを任されていました。そのほかに、私はメンバー外の選手たちの精神的なケアも担えたらいいなと考えていました。