野球部のマネジャーは想像以上に深い(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
川上哲矢さんが熊本・九州学院高校の野球部の選手からマネジャーになったのは、1年生の夏。それから東洋大学、セガサミーで計20年間マネジャーとしてチームを支え続けた。現在は野球振興イベントや野球教室の企画・運営をしている。彼の仕事の原点には、高校時代、大学時代の恩師からの学びがある。
前編では、川上さんのマネジャーとしての軌跡と、「友喜力」「人徳力」という、仕事にも人生にも通じる普遍的な教えについて深掘りする。(佐伯 要:ライター)
マネジャーに転身したきっかけ
2001年の春。私は九州学院中学校から九州学院高等学校に進みました。入部してすぐ、先輩たちのプレーを目の当たりにして挫折を感じました。「ああ、とんでもないところへ来てしまった。これは自分が通用する次元じゃないな」と。
当時の九州学院高校は、夏の甲子園に3年連続出場していた強豪校。もちろん、競争が激しいという覚悟はできていたつもりです。しかし、自分が想像した以上のエリート集団でした。
だからといって、逃げたくなかった。負けたくなかった。なんとか野球を続けたかった。そんなときに、1学年上の牛ノ浜健さんの存在が目に映ったんです。
牛ノ浜さんはマネジャーで、あまり多くを語るタイプではなかったのですが、ダメなことに対しては「ダメだ!」と言える人でした。私には牛ノ浜さんのそういう姿がとても輝いて見えて、「カッコいいな」と憧れていました。
九州学院高校の場合、マネジャーの役割を一言で表すなら「学生コーチ」です。他校と比べると役割が少し異なるかもしれません。当時は1学年の部員数が30名から40名で、そのうち10名前後がマネジャーでした。
マネジャー陣は選手の練習相手、打撃投手、ノッカー、対戦チームの戦力分析など、さまざまな役割に分かれて、チームのために動きます。
入学してから夏までの3カ月で先輩マネジャーたちを見ているうちに、チーム内でのマネジャーの重要度もだんだんわかるようになりました。
私は人と関わること、人のお世話をすることが好きです。それで「こういう貢献のしかたもあるのか。やりがいがありそうだな」と思うようになりました。
憧れの牛ノ浜さんからも「川上、マネジャーをやったらどう?」と声を掛けていただきました。その言葉もきっかけとなって、1年夏の熊本大会が終わった後に「マネジャーになろう」と決意しました。