ソ連兵への「性接待」の犠牲となった女性たち©テレビ朝日
戦後80年となる今夏、長く封印されてきた戦時下の性暴力をテーマとするドキュメンタリー映画が公開される。テレビ朝日系列で放送され、国際的にも高い評価を受けた番組を映画化した『黒川の女たち』(7月12日から公開)。若い女性を犠牲にして生き延びた開拓団の実態。戦後も続いた偏見と差別。その史実を勇気をもって告白した被害女性たち、家族や支援者。7年にわたり取材を続けた松原文枝監督に、ノンフィクションライターの西岡研介氏が聞いた。
未婚女性15人がソ連兵への「性接待」を強いられ…
映画の中で幾度か映し出される1枚の写真。彼女たちが戦後、満州から引き揚げる直前に撮影されたものだが、前列左端に写った女性の顔には、いわゆる「ぼかし」がかかっている。
撮影から80年が経った今もなお、彼女の顔にぼかしを入れなければならない事実こそが、「黒川の女たち」が彼の地で負った、心と身体の傷の深さと、引き揚げ後に郷里で受けた理不尽な仕打ちの罪深さを現している。
映画『黒川の女たち』はこんなストーリーだ。
関東軍の謀略によって引き起こされた満州事変で1932年、中国東北部に傀儡国家「満州国」が誕生した。当時の日本政府は国策として、農民を中心に満州に移住させる「満蒙開拓団」を推進。一方の軍部は、開拓団を「対ソ連防衛の前線、兵站」と位置付けていた。
そんなことを知らされぬまま満州に渡った開拓団は、45年の敗戦までに約900団余・27万人にのぼったという。だが、その実態は「開拓」ではなく、現地住民の土地や家屋を取り上げる「入植」だった。
41年から44年にかけて、岐阜県黒川村(現・白川町)から「陶頼昭」(とうらいしょう、現・中国吉林省)に入植した「黒川開拓団」もそのひとつで、4年間で600人余りが移り住んだという。
しかし、広島に原爆が落とされた3日後の45年8月9日、ソ連は日ソ中立(不可侵)条約を破棄、ソ連軍は国境を越え、満州国に侵攻した。関東軍は、それを開拓団に知らせることなく、南東に後退した。
関東軍に置き去りにされた開拓団は、ソ連軍の侵攻に直面した。さらには現地住民による略奪に晒され、集団自決を遂げた団もあった。
そんななか、黒川開拓団はソ連兵に助けを求めた。現地住民の襲撃から護衛してもらう代わりに、若い女性を差し出すことによって、団を守ろうとしたのだ。数えで18歳以上の未婚女性15人がソ連兵への「性接待」を強いられ、犠牲となったのである。
彼女たちは2カ月余りにわたってソ連兵から性暴力を受け続け、15人のうち4人が淋病や梅毒によって内臓を蝕まれ、命を落としたという。
彼女たちの「挺身」のお陰で生き残った黒川開拓団451人は46年、帰国することができたのだが、故郷に戻った彼女たちを待っていたのは、感謝や謝罪の念ではなく、「満州帰りの汚れた娘」というレッテルと、蔑みの眼差しだった。