
1941年、日本は日中戦争の継続に加えて米国との全面戦争に踏み切った。そこから得られた教訓は「開戦の決断よりも、終戦の決断のほうがはるかに困難」という点かもしれない。講和の構想を欠いたまま開戦し、戦局が泥沼化した日本の失敗から、現代に通じる「戦争と平和」の本質について、前編に続き『新書 昭和史 短い戦争と長い平和』(講談社)を上梓した井上氏に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)
【前編】「満州事変は関東軍による外からのクーデターだった」、偶発的な衝突が宣戦布告のない戦争に泥沼化していったワケ
──太平洋戦争開戦時、日本は日中戦争の真っただ中でした。2つの戦争を並行して行う国力がないことは、軍部も自覚していたと思います。にもかかわらず、なぜ日本は真珠湾攻撃をするに至ったのでしょうか。
井上寿一氏(以下、井上):当時、日米の国力差が圧倒的だったという点は、日本の軍人のみならず、一般人の誰もが知っていました。
陸軍では、日米の国力差が1対20だと周知されていました。けれども、陸軍には陸軍なりの理屈がありました。
日中戦争を継続するためには、南方まで勢力を拡大し、軍事資源を確保する必要があります。けれども、そんなことをしようものなら米国は日本に対し、経済制裁を発動するに違いありません。
当時、米国は段階的に日本に対して経済制裁を実施し、日本を抑止しようとしていました。このままだと日本は戦わずして行き詰まる。「ジリ貧」から「ドカ貧」になる。そうであれば、あえて米国を先制攻撃で叩いて短期戦で決着をつければ、日本に有利なかたちで停戦交渉を進めることができるかもしれない。そう考えました。
当時の米国は、国際紛争への関与を避けるべきだという「孤立主義」という立場をとっており、軍拡よりも国民経済を立て直すためのニューディール政策を推し進めていました。
それでも、米国は欧州で快進撃を続けるドイツとその同盟国であるイタリアとはいずれ相まみえることになるだろうと決意しており、欧州での戦争に専念するためにも、日本との戦争は避ける必要がありました。
たとえ国力差があろうとも、戦争に対する準備が整っていない段階で奇襲攻撃をかければ勝てるのではないか。このように希望的な観測ではあるものの、それなりの合理性を有した対米開戦論が陸軍の中で支持されるようになったのです。
──対米開戦論に対し、海軍や空軍はどのような姿勢をとったのですか。