
1931年、関東軍は本国政府の意向を無視し、満州で独断の軍事行動に踏み切った。満州事変である。それは「外からのクーデター」とも言うべき行為だった。その後、1937年には盧溝橋事件を発端に日中戦争が勃発したが、当時の日中両国は正式な宣戦布告を行わず、「戦争ではない戦争」が泥沼化していった。
なぜそのような異常な事態が生まれ、拡大したのか。『新書 昭和史 短い戦争と長い平和』(講談社)を上梓した井上寿一氏(学習院大学法学部教授)に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)
──戦前に活躍した軍事評論家・石丸藤太は、1931年に上梓した『日米果たして戦ふか?』にて、日米戦争を回避するための手段を書き記しました。なぜ太平洋戦争が始まる10年も前に、そのような書籍が発行されたのでしょうか。
井上寿一氏(以下、井上):1920年代から、日米関係には戦争になりかねない不安定な要素が複数ありました。
大きな要因の1つとして、軍縮の問題が挙げられます。1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれました。この会議の目的は、イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリアという第一次世界大戦の戦勝国による海軍軍備の拡張を抑制し、国際的な軍拡競争を防止するところにあります。
この会議で、日本は補助艦の保有量を米国の保有量の7割を求めましたが、叶うことなく6割9分7厘5毛で条約が批准されました。これがロンドン海軍軍縮条約です。
日本海軍内には、この比率を「不公平」として強く反発する者もいました。これにより、海軍内部で条約に賛成する「条約派」と、軍拡を主張する「艦隊派」の対立が激化しました。
当時の海軍の仮想敵は米国でした。艦隊派は米国に対して7割以上の補助艦保有量がなければ、太平洋で起こるかもしれない戦争に敗けてしまうと考えていました。
石丸は海軍出身の評論家にもかかわらず、このような艦隊派の考え方を危険視していました。
日米関係を悪化させたもう1つの問題は、中国をめぐる対立です。日本が中国大陸で勢力を拡大していくことを米国は警戒していました。石丸は、その対立の先に戦争が起きるのではないかと心配していました。
石丸は、軍縮問題も中国をめぐる対立も、それぞれ解決可能であると考えていました。個々の問題を解決していき、日米が戦うことがないようにしなければならないと警鐘を鳴らしていたのです。
──石丸が考えていた戦争回避論は、具体的にどのようなものだったのでしょうか。