「やめ時を模索している間に、1945年8月になってしまった」
──結局のところ、山本五十六が言ったような半年や1年では済まずに、太平洋戦争は約3年半続きました。1945年8月よりも前に戦争を終結させる選択肢はなかったのでしょうか。
井上:やめ時を模索している間に、1945年8月になってしまった、と言うのがより正確でしょう。
日本はどこかの段階で米国に大きな打撃を与え、その戦果をもとに和平、すなわち講和へと持ち込みたいと考えました。そのため、戦局の「天王山」となるべき決戦の場を求め続けました。
けれども、ここぞと思うところで連敗を重ね、「天王山」は次々と後退していきました。陸軍と海軍で「天王山」の地点も異なり、最後まで戦略を統一することができなかったことも失敗の原因の一つです。これでは勝機をつかむことができるはずもありません。
日米の国力の差は明らかで、真珠湾攻撃のわずか半年後、早くもミッドウェー海戦で大きな痛手を受け、戦局は大きく傾きました。その後も「勝てない」とわかりつつも「負けるわけにはいかない」と不退転の決意で戦争は継続され、軍民ともに犠牲が増していきました。
どこかで戦果を挙げられるのではという淡い期待を抱きながら、戦場は次第に日本本土に接近してきました。沖縄戦でも敗けて、ついに米国の本土上陸作戦に備えなければならないという段階になり、さらに2つの原爆投下、ソ連の対日参戦と続き、ようやく日本はポツダム宣言を受け入れ、終戦を迎えました。
こうしてみると、戦争は始めるよりもやめるほうがはるかに難しいということがわかります。やめ時を見誤れば、犠牲は増す一方となります。
──陸軍と海軍の足並みが揃わなかった理由として、どのようなことが考えられますか。
井上:日本軍は陸軍と海軍の間で守備範囲や戦略の違いが大きく、組織利益を守る観点からも戦線の統一が困難でした。
陸軍はソ連との対立を常に念頭に置き、対ソ戦の準備も進める必要がありました。一方で、東南アジアや太平洋での戦争は基本的に海軍が担うべき戦場です。陸軍からすれば、「なぜ我々が海軍の戦争にまで全面的に関与しなければならないのか」という不満があったと言えるでしょう。
実際に、戦争末期には日ソ戦争も現実となり、こうなると戦争全体を統括する明確な戦略が欠けていたことは致命的でした。