図1 品川宿の旅籠屋 芝甘交著『道笑双六』(天明6年)国立国会図書館蔵
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(永井 義男:作家・歴史評論家)

江戸の常識は現代の非常識? 江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原などの性風俗まで豊富な知識をもつ作家・永井義男氏による、江戸の下半身事情を紹介する連載です。はたして江戸の男女はおおらかだったのか、破廉恥だったのか、検証していきます。

旅籠屋の飯盛女=宿場女郎

 現代、家族旅行で観光地のホテルに親子連れが泊まったとき、ロビーに派手な格好で、けばけばしい化粧をした女性の一団がたむろし、男性客をさそっていたら、どうであろうか。

 あるいは、男性が出張で駅前のビジネスホテルに泊まったとき、やはりロビーに女性の一団がたむろしていて、男性客をさそっていた。見ていると、チェックインをすませた男と話が付いたのか、ふたり連れで部屋に向かう様子である。こんな光景があれば、どうだろうか。

 もちろん、風営法など各種の規制により、上記のような観光ホテルやビジネスホテルはあり得ない。もしあったとしたら、宿泊客は耐え難い気分であろう。とくに家族旅行など、「子供に見せたくないな」と、いたたまれない思いになろう。

 中には、ひとりで出張の男性など、これさいわいと利用するかもしれないが(筆者もそのひとりかも)、全般には人々が嫌悪する状況であろう。

 ところが、江戸時代にはごくありふれた、当たり前の光景だった。次に、くわしく見ていこう。

 全国の主要な街道の宿場では、旅籠屋(はたごや)は飯盛女(めしもりおんな)を置くことを、幕府の道中奉行から許可されていた。

 飯盛女は宿場女郎ともいい、要するに娼婦(売春婦)である。だが、道中奉行が認めているため、公娼だった。つまり、合法的な存在だったのだ。

 飯盛女を置いた旅籠屋は、事実上の女郎屋(遊女屋)だった。

 肝心なのは、飯盛女を置いた旅籠屋は本来、旅籠屋なので、普通の客も泊めたことだ。しかも、飯盛女を置いた旅籠屋のほうが、置いていない旅籠屋より高級だった。

 公用の武士や商用の商人、寺社への参詣人らが泊まるいっぽうで、飯盛女が目的の男も多数やってきて、昼間から遊び、あるいは泊まった。

 江戸にも飯盛女はいた。というのは、品川宿(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋宿(中山道)、千住宿(日光・奥州街道)の江戸四宿(ししゅく)は、あまりに江戸市中に近いため、宿泊する旅人はほとんどいない。

 本来の旅籠屋業務だけではとうてい経営が成り立たないため、道中奉行に飯盛女を置くことを願い出た。

 そして、品川は五百人、内藤新宿、板橋、千住はそれぞれ百五十人の飯盛女を置くことが許された。その結果、江戸四宿は宿場でありながら、江戸の男にとって手軽な遊里(売春街)となったのである。江戸四宿の旅籠屋はほとんど女郎屋と化した。

 とくに品川は繫栄し、なにかにつけ吉原に比較されるほどだった。

 図1は、品川の旅籠屋の光景である。旅籠屋の入口で、飯盛女が顔見せをしているではないか。