国家の分断と植民地の独立
東西冷戦は、朝鮮半島、そしてドイツに分断国家を生むことになったが、植民地の独立にも影を投げかけ、同様の事態が起こった。
インドシナ半島のベトナムでは、ホー・チミンが舵を取る社会主義のベトナム民主共和国はフランスと戦火を交えた(独立戦争、第一次インドシナ戦争)。54年5月のディエンビエンフーの戦いでフランスは敗れ、7月にジュネーブ協定が締結され、フランスはベトナムから撤退した。そして、17度線を境に南北二つの国、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)が誕生した。

北ベトナムの攻勢に対抗して、アメリカは南ベトナムを支援するが、62年2月にはベトナム戦争に引きずり込まれていく。

1960年代、日本の知識人は「ベトナム戦争反対」の論陣を張った。私は大学生であったが、キャンパスはこの「ベトナム戦争反対」のスローガンで溢れていた。ソ連は、「アメリカ=腐敗した資本主義=帝国主義」vs「ソ連邦=清潔な社会主義=平和主義」という図式のプロパガンダを流し続け、それは大きな効果を持った。


ソ連による宣伝と日教組による左翼教育が相乗効果を生み、「左翼でなければ人でなし」という空気がマスコミや論壇を支配したのである。
しかし、全体主義独裁というソ連の本質はいささかも変わらなかった。国内で政治的自由を弾圧するのみならず、56年にはハンガリー(ハンガリー動乱)で、68年にはチェコスロバキア(プラハの春)で、自由を求める動きを戦車で潰したのである。ソ連の介入の根拠は「制限主権論」という手前勝手な論理であった。
