太鼓持ちを老中首座にして好き放題に振る舞う
家斉は11代将軍の座に就くと、父の治済と共に田沼系の勢力を排除するべく動く。すでに田沼意次は失脚していたものの、田沼派の大老や老中は依然として勢力を持っていたからである。そのために、家斉と父・治済は、白河藩主として藩内の財政改革に成功していた松平定信を老中首座にしようと画策する。
『べらぼう』の視聴者ならば「おや?」と思うだろう。定信は8代将軍、吉宗の孫に当たり、御三卿の田安徳川家の初代当主である徳川宗武(むねたけ)の七男だった。その聡明さから、10代将軍、徳川家治の跡継ぎ候補だったが、家斉の父である一橋治済がそれを阻止しようと動く。田沼意次の協力を得て、定信を白河藩へ養子に出さざるを得ないように仕向けたのである。
治済と意次は、田安家に残っていたほかの男子も、次々と大名家の養子に出すように働きかけた。その結果、もともと病弱だった田安家の当主が若死にしたときには、誰も継ぐ者がいないという状態にまで追い込んでいる。ライバルを一人残らず消した治済は、思惑どおりに息子の家斉を将軍にすることができた。
つまり、治済と家斉の親子は、かつて自分たちが追い落とした相手を政権に取り込もうとしたのだ。定信が白河藩で行った改革手腕はそれほど魅力的だったということである。
老中首座に就任した定信は、幕閣から幕府官僚、奥女中に至るまで田沼系を排斥。政権の中枢には自派メンバーを固めて「寛政の改革」を行う。定信は、賄賂が横行した商業主義政策を見直すべく、緊縮財政と風紀の取り締まりによって、幕府の財政を立て直そうとした。祖父である吉宗と同じ方針である。
だが、大きな誤算が生じた。定信の厳格さは想像以上で、将軍相手にも容赦しなかったのである。将軍の家斉が父を大御所として江戸城に入れようとすると、定信はそれを拒否。また、光格天皇が父の典仁親王に対して太上天皇の尊号を贈ろうとしたときも頑なに反対した。
定信は、幕府の財政を圧迫する「家斉の子づくり」をも制限しようとしたらしい。さすがにやりすぎ……と、家斉は耐え切れずに定信を失脚させている。
代わりに、家斉のご機嫌をとるのが得意だった沼津藩主の水野忠成(ただあきら)を老中首座に抜擢。忠成はぜいたく好きの家斉を戒めるどころか、自身も公然と賄賂を受け取る始末だった。
さらに、破綻しかねない幕府の財政から、家斉が浪費するお金を捻出するのに、必死になったようだ。なにしろ、家斉は40人も側室を持っていたため、大奥女中の数は900人以上にも及ぶ。大奥を維持するだけでも、莫大な費用が必要となる。
そこで忠成は約15年間で8回も貨幣改鋳を行い、その差額で財政の穴埋めを行ったというから、とんでもない話である。その結果、経済はインフレを起こして庶民の生活は苦しくなるばかりだった。
