薩摩藩の「高輪下馬将軍」が中央に影響力を持つ

 10代将軍の家治の後は、嫡男の家基(いえもと)が継ぐはずだったが、鷹狩りの最中に急死した。病死とされているが、『べらぼう』では何者かの働きかけがあったという設定になっている。

 もっとも疑わしい人物が、一橋治済(はるさだ)だ。家基が亡くなったことで、治済の息子・家斉(いえなり)が11代将軍となっていることからも、動機としては十分といえそうだ。

 実際には、家基が亡くなった後、どのようにして一橋家の家斉が将軍になったのか。

 10代将軍の家治は4人の子に恵まれたものの、いずれも早世してしまったため、御三卿の一つである一橋家から、家斉を養子として迎えることになる。

 家斉の幼名は「豊千代」という。豊千代は天明元(1781)年に9歳で家治の養子となると、間もなくして西の丸に入った。諸大名や旗本と拝謁(はいえつ)が行われた後、その年中に「家斉」と名を改めている。

 バタバタしたのは、当の家斉だけではない。家斉は4歳にして、薩摩藩藩主の島津重豪(しげひで)の娘、茂姫(しげひめ)との縁談が決まっていた。家斉と茂姫は同い年であった。茂姫も嫁いだ先が将軍家になる可能性は低いと考えていたことだろう。まさに青天のへきれきである。

 家斉が家治の養子になるやいなや、茂姫は一橋屋敷に迎え入れられて、その後、幕府が警護する中、西丸脇の東御殿に移り、さらに大奥へ入っている。そこで、将軍の御台所(妻)としての教育が施されることとなった。

 ここでポイントとなるのが、茂姫の父である島津重豪である。重豪といえば、酒豪ですこぶる壮健な人物として知られており、それまで有力大名や将軍との婚姻を避けていた島津家の方針を大転換させて、パワフルに政略結婚を推し進めた。一橋家の家斉にしっかりと娘を送り込んでいたのも、そんな政策の一環である。

 重豪は家斉が将軍となってしばらくすると、高輪の屋敷に移り住み、将軍外戚という立場を存分に活用した。薩摩藩の財政を立て直すべく、琉球貿易によって入手した中国産品を長崎で販売させてもらうように幕府に働きかけ、これを認めさせている。

「高輪下馬(たかなわげば)将軍」と称されるほど、将軍家の岳父として権勢を振るった重豪。のちに薩摩藩が中央の政治への影響力を持つようになる、大きなきっかけとなった。