「窯変」と「曜変」の違い

 展覧会では静嘉堂が所蔵する《曜変天目(稲葉天目)》が出品されており、今回はその姿が全角度から鑑賞可能。展示ケースの下面に鏡が据えられ、高台の内側まで見ることができる。

 本展のハイライトはこの《曜変天目(稲葉天目)》。だが、それ以上に最新の調査・研究の結果を交えて《曜変天目》の謎をひも解いていく「パネル展示」が興味深い。このパネル展示こそが、本展の肝であり、長年《曜変天目》を研究し続けてきた静嘉堂の大きな成果といえる。その内容を引用、抜粋、再構成して紹介したい。

 まず「曜変」とは何であろうか。「窯変(ようへん)」はやきものの焼成の過程で釉薬が予期しない色や変化を呈することを指す言葉だが、「曜」の字を使う「曜変」は中国の文献に見当たらない。「曜」の字には「かがやく、ひかる」の意味があり、おそらく日本で生まれた当て字だろう。

 この「窯変」は中国では恐れられることが多かった。南宋の周煇(1127~?)『清波雑志』には「北宋の大観年間、景徳鎮において窯変が生じ、陶器が朱砂のような赤色に変化したため、陶工たちは恐れて壊した」とある。また明代の謝肇淛(1567~1624)の『五雑組』には「景徳鎮窯では常に窯変が起こり、器に魚の形や果物の影が現れる。伝え聞くところでは、童男女の生き血をとって祭るために怪異が起きる。(中略)禁中に知られて取り調べを受けるのを恐れて、人は大抵砕いてしまう」と記されている。中国では、窯変は不吉の兆し。中国に《曜変天目》の完品が現存しないのはこのあたりに理由があるのかもしれない。

なぜ日本に所蔵されているのか

 現存する3点の《曜変天目》の制作時期は12~13世紀の中国・南宋時代。中国福建省南平市建陽区水吉鎮の建窯の、なかでも優品を多く生産した蘆花坪窯址にてつくられたと考えられている。それがなぜ、日本にもたらされたのだろう。

 中国の宋代、最高級の茶とされていたのが固形茶で、それを粉にして立てる点茶法(茶末に湯を注ぎかき混ぜて飲む方法)が好まれていた。茶の色は乳のように白く、建窯の黒い天目茶碗は茶の色を引き立てるとともに、高い保温性をもつ茶碗として高い評価を受けていた。だが、南宋時代には葉茶を湯に浸して飲む泡茶法が復興し、その後、明朝の初代皇帝・洪武帝は高級な固形茶の生産を禁じてしまう。建窯の黒い天目茶碗は不要となり、14世紀には生産を停止している。

 一方、日本では12世紀後半に点茶法が伝わり、14世紀頃から喫茶が流行。中国製の天目茶碗の需要が高まっていく。そうした中、室町幕府が行った日明貿易により、建窯の優品が日本にもたらされた。日明貿易を記録した『大明別幅幷 兩國勘合』には、永楽4年(1406)、明の永楽帝が室町3代将軍・足利義満に「建盞(けんさん)」十碗を下賜したと記載されている。こうした下賜品の中に《曜変天目》が含まれていた可能性は十分にあるだろう。