美声で人気を博した二代目・富本豊前太夫

喜多川歌麿《高名美人六雛家撰・富本豊》江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 出典:ColBase

 幼くして父を失った富本午之助は、亡父の高弟であった富本斎宮太夫(初代)らの指導・後見を受け、修行に励み、明和3年(1766)、数えで13歳の時、亡父の三回忌追善として初舞台を踏んだ。

 面長のため、「馬づら豊前」の異名で親しまれた午之助は、天性の美声の持ち主のうえに節回しも巧みだった。

 特に、富本の代表曲『其俤浅間(そのおもかげあさまがだけ)』(略称『浅間』)を語ると、満都の好劇家がわいたという。 

 安永(1772~1781)の中頃には、人気が急上昇していき、常磐津節を凌駕した。富本節は午之助のもと、全盛時代を迎えることになる。

 安永6年(1777)には、豊前太夫を襲名した。

 この年、蔦重は、富本節の正本(音曲の詞章を記した本)と稽古本(節付けがなされた稽古用の本)を出版できる「株」を取得したという(安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)。

 蔦重、28歳。午之助、24歳の時のことである。

 二人がどのような経緯で結びついたのかは、わかっていない。もしかしたら、ドラマで描かれたようなことがあったのかも知れない。

 いずれにせよ、蔦重は富本節の正本や稽古本の発行を手がけた。

 富本節の人気の高まりとともに、それらの本の需要も高まり、大量の部数が売れたと考えられている(鈴木俊幸『本の江戸文化講義 蔦屋重三郎と本屋の時代』)。