原稿料を払う習慣を、蔦重と共に作った?
この時代、従来、戯作者に潤筆料(原稿料)を支払う習慣がなく、版元は、吉原や両国の料亭などで接待することにより、原稿を書いて貰っていた(松嶋雅人『蔦屋重三郎と浮世絵』)。
だが、『伊波伝毛乃記』によれば、寛政年中(1789~1801)に、山東京伝と馬琴の書いた草双紙(黄表紙)が大流行するにおよび、鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎は相談の上、初めて二人の著作の潤筆料を定め、他の版元で作品を書くことがないようにしたという。
馬琴は、作者に原稿料を払う習慣は、鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎から始まったと述べている(以上、現代語訳参照 佐藤至子『蔦屋重三郎の時代 狂歌・戯作・浮世絵の12人』)。
また、山東京伝の弟・山東京山が著した『山東京伝一代記』には、寛政3年(1791)より5、6年前、すなわち、天明5、6年(1785、1786)頃から、原稿料を得ていたことが記されている。
いずれにせよ、鶴屋喜右衛門と蔦屋重三郎は仕事上、手を組むことはあったのだろう。
今後はドラマでも、協力し合う二人の姿が、観られるかもしれない。
